「欧州どまんなか」 February 05, 2002
どう殺すのが人道的か

 

人の殺し方は推理小説のタネになるが、今から問題にするのは牛の殺し方である。読者のなかには、狂牛病の心配さえなければ、殺し方などどうでもいいと思われるむきがあるかもしれない。でも、屠殺の仕方は、一神教で親戚同志にあるユダヤ教、キリスト教、回教のあいだでは重要な争点である。

ドイツ憲法裁判所が、少し前「回教の戒律に基づく屠殺を合法とする」判決を下した。こんな判決が下るのは、回教の屠殺の仕方が、ドイツやその欧州諸国で普通とされる「人道的な屠殺」と異なり、今まで許されていなかったからである。

昔、私はドイツの田舎の兼業農家に短期間間借りしたことがある。ある日、外で「キュー、キュー」というなき声がした。窓から見下ろすと庭で皆がブタを押さえつけて、長男が鉄棒で頭をぶん殴った。私は目をそむけ一瞬「野蛮人」と思ったが、すぐ思い直す。だって誰かがこの作業をしているので、私たちは肉を食べることができるからである。

普通の「人道的屠殺」は、私が昔見た方式に似ていて、頭に衝撃をあたえ気絶させてから解体にかかる。屠殺場では、家畜が運び込まれてから解体されるまでの行程が流れ作業で、牛は空気銃に似たもので、ブタは電気ショックで動かなくなる。西洋人がこの屠殺法を「人道的」と見なすのは、動物が瞬時に意識を失い、痛みを感じないと、彼らが信じているからである。

それに対して、ユダヤ教徒や回教徒は、動物を生きたまま屠殺することを重視する。そのために、喉の部分を深く長く切って、じゅぶん血抜きをすませてから解体をはじめる。こうすると動物がピクピク動いたり、血が大量に流れるので、「動物虐待」になる。だから熱烈な動物愛護者・仏女優ブリジッド・バルドーが今回の判決に対して、シュレーダー独首相に抗議の手紙をおくった。

欧州では、「人道的屠殺」がEU共通法になっている。でも、ユダヤ教徒や回教徒の屠殺を彼らの宗教活動として許可するかどうかは、加盟国が決めていい。ドイツは、ユダヤ教の屠殺は認めているが、回教徒のほうは、相手がトルコ人と軽く見て、宗教と無関係とつっぱねて許可してこなかった。今回の判決で、この露骨な不公平が是正され、ドイツが「多文化社会」に向けて一歩前進したと歓迎する声も強い。でも反対派は「動物愛護」を憲法に盛り込み反撃に転じる構えをしめす。議論は今後も続きそうである。

回教徒やユダヤ教徒は、死んだ牛を食べてはいけないとか、血をきちんと抜かないと腐りやすいとかいった理由から、このような屠殺方法をとるようになった。牛が気絶しても死んだわけでないし、冷凍技術が発達した現在、肉がくさるおそれもない。それでも、彼らがこの屠殺の仕方に固執するのは理屈でなく、気持ちの問題である。だから彼らは、屠殺中牛が貧血症状に陥り、痛みをあまり感じないと反論するしかない。

それでは、「理は我にあり」とばかりに動物の虐待を弾劾する動物愛護者はどうであろうか。現在スタンダードの「人道的な屠殺」がひろまるのは二十世紀に入ってからである。それは、十九世紀後半から欧州で動物愛護が強くなったためだ。ちなみに、ドイツの各地で動物愛護団体が生まれるのは、ほぼ十九世紀末頃である。また二十世紀全体では、動物愛護は強い時期と弱い時期があった。現在の高揚期は前世紀70年代後半に強くなった環境・人権運動と連動している。だから、「人権」になぞって「動物の権利」を提案する人も多い。

日本にも「無益な殺生はいけない」という考え方がある。でも、これと欧米人の動物愛護は似て非なるものである。彼らの「動物」とは私たちの「生きとし生けるもの」でなく、文化的に縁故があるためにひいきする動物で、ペットである。「ドブネズミ愛護協会」をあまり聞かないのもそのためである。彼らは自分たちの支配下にある「動物」のみを人間並に扱うとしている。私には、そんな気がしてしかたがない。

彼らは血生臭いことを見たくないので、大量出血する回教徒の屠殺を野蛮と思う。でもこれも昔から彼らがそうだったのではない。例えば、フランス革命では群集が処刑を見物し歓声をあげた。このことを忘れ、回教徒にむかって「残酷だ」とお説教しているうちに、今度は血生臭くなければ人道的であると勘違いする人が増えてくることを私は心配する。

今回の判決の反対者から、回教式屠殺で牛が死ぬまで13分間も経過することが「人道的でない証拠」として指摘された。これは、死をタブー化した近代社会の死生観の反映ではないのだろうか。というのは、私たちは、時間をかけて死んでいく人より、この世から瞬時に消えてくれる死者のほうが好きである。これも、私たちが日常生活で死を意識しないですませたいからである。

とすると、動物愛護者の「人道的」世界とは、死を意識したくないが故に、いつまでも若いままでいたいと願望する人々が、自然と隔離され、ペットの動物に囲まれて暮らす世界ということにならないだろうか。