「欧州どまんなか」 April 02, 2002
とんだ、とんだ

美濃口氏の写真 美濃口 坦
ミノクチ・タン

1970年から京都ドイツ文化センター勤務。1974年ミュンヘンに移住。1980年から1991年まで書籍販売業。人生の大部分を通訳、翻訳、教師等で日銭を稼いで生きてきた「フリーター」先駆者。この数年来、日独のメディアに寄稿。訳書「比較行動学」(アイブル=アイベスフェルト)

 

「生まれたての赤ん坊は皆そう見えるのです」
と隣のベットの女性が声を荒立てた。我が息子を見て、義母が「赤いカエルみたい」といったからである。感じたことは何でも口に出す自分の母親に慣れている妻は無視した。

これは、息子が生まれた産科病院での場面である。当時、私は妻と息子に会うために毎日通う。三日目、妻の母親が同行したいというので連れて行った。部屋のなかに四組の母子がいる。なぜドイツ人の赤ちゃんには髪の毛が生えていないのだろうか。私は息子に視線を戻す。ドイツ人の眼には、息子は肌が黒いために「赤いカエル」のように見えるのかもしれない。はれぼったい眼をして、妻に寄りかかる息子を見て、私は前垂れをしたお地蔵さまを連想した。

私は、息子をカエルに形容されことで傷ついたのだろうか。今でもこの点がよくわからない。ただ帰りの自動車の中で私は寡黙であったし、その後息子は日本人の自分の子供という強烈な意識が残る。子供と二人だけいると、ドイツの中で「日本領土の陸の孤島」で暮らしているような気がした。この島の言語が日本語で、私は赤ん坊の息子にいつも関西弁で話しかけた。

赤ん坊は笑ったり泣いたりするだけで何も答えないので、今から考えると、私はずいぶん奇妙なことをしていたことになる。当時自宅の一部を事務所にして、そこで働いていたので私には子供と過ごす時間はたくさんあった。

息子が最初話したコトバは「ママ」である。妻をはじめ周囲のドイツ人もドイツ語で「ママ」といい、私は私で「ママはすぐ来るさかい待ってるんやで」といっていた。だから最初に話した単語がドイツ語か日本語か特定できない。

子供が一歳ぐらいになった頃、ドイツ語の片言らしきものを話しはじめる。それを聞き、私は母に加勢を求める。夏、母は我が家に滞在し風船や紙飛行機で四六時中息子と遊んでくれた。こんな優しくて根気強く孫と遊んでくれるおばあさんは見たことがないと、当時妻がよく他人に自慢していた。

ある日、隣の部屋から「とんだ、とんだ」という息子の声が聞こえる。紙飛行機が飛んだからである。これが息子の口から出た最初の日本語であった。当時ミュンヘンの飛行場は町に近く、庭から高空を旋回する飛行機が見えた。そのうち外から「とんでる」という息子の声が聞こえてくるようになった。

しばらくして生まれた娘に対しては、「日本領土の陸の孤島」に住むという気持ちが私には希薄であった。息子と娘に対する私の意識の相違が「女は嫁にやるもの」とする日本男性特有の家父長的思考の反映だとして、妻は今でも私を非難する。娘は私と日本語で話すが、兄とはドイツ語で話すので彼女の日本語能力は少し弱い。

子供たちは平日ドイツの学校へ、土曜日だけミュンヘン日本語補習校に通学する。彼ら漢字が苦手である。この学校で、私は、ドイツ人と結婚してここで暮らし、子供の独日両言語習得に熱心な同国人に出遭った。その多くは女性で、彼女たちの努力に私は頭が下がる思いがした。

妻は子供たちが日本語を学ぶことに協力的であるのに、私には最初からバイリンガル教育に対して熱意が欠如していた。子供たちが成長するとともに、自分が子供たちと「日本領土の陸の孤島」に住むという気持ちは消えてしまった。どちらかいうと家庭内で私一人がこの孤島にとどまり、日本的父親として関西弁で子供たちを叱り、孤立していく傾向にある。

バイリンガルは昔から言語学者が関心を抱く現象である。子供が複数の言語を円滑に学ぶための原則として「一人・一言語(une personne, une langue)」が強調される。はじめから、私は子供たちと日本語で、妻はドイツ語でしか話さなかった。彼らは私と妻がドイツ語で話すのを聞いているのに、私が話しかけると、不思議なことに私には日本語でしか答えない。

よく子供たちから文句をいわれたが、私は彼らの日本語学習意欲向上のためにも頻繁に家族で日本を訪れるべきだった。そうしなかったのは、行くのに金がかかるという理由以上に、私にとっては日本が心理的にどこか敷居の高い国だったからである。これも私個人の問題で、子供たちには関係がない。

子供たちが小さい頃、母は四回も夏ドイツに来てくれて、いつも一月近く滞在してくれた。母は出不精で、外国など一度も行ったことも、行こうと思ったこともなかった。また当時七十歳を越えていた。だから、彼女がドイツくんだりまで来てくれたことに私は感謝している。母は少し前亡くなったが、子供たちが日本を好きなの国と思うのは彼女のおかげである。

子供たちには「おばあちゃん」は固有名詞で、ドイツ語で話題にするときも、この日本語の単語をそのままつかい、その結果周囲のドイツ人はこれが母の名前と思っている。固有名詞とは、この世で一つしかない存在を示すものである。