「欧州どまんなか」 August 13, 2002
公的睡眠「inemuri」をする私たち

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昔私はドイツの機関で文化行事を担当していた。ある日、上司の機嫌が悪い。少し前にあった講演会で出席者が居眠りをして、ドイツに帰国した講演者が本部で抗議したと彼は嘆く。

ドイツの学者の話は遠まわしなことが多く、聞いているうちに居眠りしても不思議でない気がした。「講演会ご来場の方に居眠りなさらないようにお願い申し上げます」などとポスターに書けない。でも若かった私は自分の同国人が居眠りしたことで自分が叱られたような気持がした。

なぜ私がこんな昔話を思い出したかというと、最近この日本人の「居眠り」を扱った博士論文が誕生したからである。日本学関係者のメーリングリストから来るメールのなかに、この論文に学術賞が授与されたというニュースを眼にする。

受賞者はブリギッテ・シュテーガ−さんというウィーン大学の研究者で、メールには彼女自身の論文レジュメがついていた。日本人に「働き蜂」のイメージがあるが、義務を免除する社会的構造があって、その一番ラジカルな方式は眠りである。この観点から、彼女は日本人の時間の過ごし方、勤勉、家族同志の関係、男女関係、不安などを分析したと書いてある。

最後に、「、、、私は、ゴフマンの『関与』のコンセプトを援用して公的睡眠(inemuri)を下位の関与と見なして分析し、この目的が社会的義務から逃れる手段であり、この事情を表現するために『隠れ蓑』というコトバを用いた」とある。

エライコッチャ。私は自分が居眠りから起こされたような気持になる。あの時京都で、難しい話を聞きながら日本人は「関与」、関心が低くなり居眠りし「隠れ蓑」をつけたが、ドイツの偉い先生にばれてしまったのだ。

私はこれですべて解明という気持がした。この四百頁に及ぶ論文が出版されたら買って読む。その後、数年前に再会した私の昔の上司に送りつけてやるぞ。でも次の瞬間、この部厚い本を読んで自分が居眠りするような気がしてきた。「inemuri」の本を読んで居眠りしたらこれも失礼である。

日本人は「公共空間」、例えば電車の中でよく居眠りをする。この現象は日本を訪れたヨーロッパ人が度々話すことである。確かに、居眠りはドイツの電車の中であまり見られない。私は今まで、何度居眠りをして降りるべき駅を乗り越してしまったことか。昔学生時代私はゼミで居眠りした。これを退屈な議論に対する身体的抗議の表現とほめてくれたドイ人の学生がいて、当時私はとても恐縮した。

それでは、私たちはなぜ電車の中で居眠りするのだろうか。

一つの理由は、自分に関係ない音を自動的に聞かないですます能力が私たちに発達しているからではないのか。その証拠に、妻は私のいびきでよく眠れなかったと文句をいうが、私には彼女のいびきなど気にならない。

次に、私は子供の頃母から「電車の中でキョロキョロしてはいけません」とか「よそ見しないでさっさと歩きなさい」と叱られた。これは、他人に関心を寄せず、できるだけ自分に集中するべきとする日本的公共空間での行動規範である。

これに従って、電車の中でキョロキョロしないために眼をつぶる。そのうちに居眠りする。でも居眠りしないで眼をつぶっているだけの人も多い。(反対にドイツの電車で眼をつぶっている人はみかけない)。

ヨーロッパでは昔寝室がなく大きな部屋の大きなベットでたくさんの人々が雑魚寝をしていた。(その頃彼らも居眠りをしたと思われる)。ところが、19世紀に入ってから住居のなかで睡眠専用の部屋が独立して設けられるようになる。その頃から現在も通用している公私の区別の考え方が生まれ、寝室はもっとも私的なる空間と見なされるようになる。

公共空間での行動規範も日本とはかなり異なり、電車の中という公共空間では、寝室ですることはしてはいけないという規則もその一つである。そのような国から来た人々から見て、電車の中の睡眠は公共空間にふさわしくない私的行為ということになる。

家の外では他人に関心を抱かないことを是とする私たちには、居眠りも特別に私的ことではない。本人が無賃乗車をしていない限り、私たちは「社会的義務」を逃れていると感じないのではないのだろうか。日本について「公私」となると、政治家が混同し私腹を肥やすだけでなく、議論も混乱してくる。

私は妻と話しながら居眠りをしたことがないので、テーマと直接関係がない。でも、私の「関与」の度合いが低く、妻の話に私が身を入れて聞かないために「隠れ蓑」といわれないまでも、それに近い非難を、私は彼女からよく耳にする。この問題で自分を検討するためにも、私はレジュメだけでなく、本当にこの論文を読まなければいけない気がした。

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