「欧州どまんなか」 September 17, 2002
姪の思い出

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去年の9月11日私の姪は例の事件で不幸に遭う。事件直後のAICコラムに書いたように、彼女は運悪く、ニューヨーク世界貿易センターで働いていたからである。

子供のときの姪は、当時そんなコトバがなかったが、「帰国子女」であった。というのは、彼女は父親の仕事の関係でドイツに数年暮らし、小学校入学直前に戻って来たときは日本語もおぼつかなかった。

帰国直後、姉の家族は京都の我が家にしばらく滞在する。年齢があまり違わない姪を妹のように感じるところがあった私は当時毎日学校から寄り道もせずに帰宅した。

姪は話しながら単語がわからないとドイツ語で父親にきく。彼女は喜怒哀楽をはっきりと表現し、祖母が一度「西洋の女のようにヒステリーになる」と悪口をいったが、私にはとても新鮮で魅力的あった。

ある日帰宅すると、外で遊んでいた姪が帰って来ないと皆が心配している。私はさがしはじめた。近所には、小さな家がたくさんくっついて並んでいて、我が家で「長屋」と呼ぶ一角があった。私がそこにさしかかると突然姪の笑い声が空に響いた。私が名前を呼ぶと姪が二階の窓からその家の女の子といっしょに手をふっているではないか。

私は仰天した。というのは、格式を重んじ理由もなく偉そうぶる私の生家は、私たち子供に「長屋」の子供たちと交流することを禁じていたからである。私は従順にいわれた通りにする子供であった。姪はそんなことにこだわりを感じない。そのような姪を、私は自然に感じ、子供心に姪がそうなったのはドイツで暮らしていたからだと思った。

私は大学時代ドイツ文学を専攻する。最初から自分にとってドイツも、またその文学もどこか理屈でなく、実感し体験すべき対象であった。そうだったのは、あの時窓から手をふっていた姪の姿と関係があったのではないのだろうか。ずっと後になって、私はそう思ったことがある。

日本で暮らしていた頃、私は親族の葬式や結婚式で姪に会ったかもしれないが、記憶にあまり残っていない。その後私はドイツで暮らし彼女と会うこともなくなる。

でも、私がドイツ文学にまだ未練をもっていた頃、大学卒業を間近に控えた姪が南ドイツの小さな町でドイツ語講習会を受けることになり、私のところに数日泊まった。

子供の頃祖母から「西洋の女のよう」と悪口をいわれたのに、姪は日本の「お嬢さん学生」に変貌して、通り一遍のことしかいってくれない。でも一度だけ彼女は、私にドイツ文学などしてどうするのかと尋ねたことがあった。私も同じ疑問を抱いていたので姪のこの率直さが私にはうれしかった。

大学で英文学を専攻した姪が、後で文学と無関係な世界に進み、米国の証券会社で10億ドルの株の売り買いをするようになったのは、当時三十を越して生活不安定な叔父さんを目の当たりに見たからだと思う。

それから数年後、すでに就職した姪はミュンヘンにまた現われた。彼女は浮かない顔をしている。何度見合いしても決心できない姪に業を煮やした母親が「ドイツに行って来い」と叱ったという。結婚とか、男女関係とか、女性の生き方とかいったテーマで私は饒舌になり、結婚という型に娘をはめこもうとする姉を猛烈に非難した。また私は、職業をもち結婚などにこだわらず自由に生きるドイツの女性の利点を力説する。

姪は二、三日滞在し、私たちはいっしょに街を歩いたり喫茶店に入ったりした。ある時、ミュンヘン市庁舎の地下鉄の駅で「、、、、でも日本の女性は結婚しないと何もできないのよ。だからそうしないと好きなこともできない、、、」と彼女がいった。その瞬間電車がホームに入って来たのを私は覚えている。人間の記憶とは奇妙である。

しばらくして京都の母から、姪が見合いして結婚が決まったことを知る。同じ頃、姪から「自分を本当に好きに思ってくれる人に出遭えたのは幸せなことで、だから結婚することにした」というだけの短い手紙が来る。私は読みながら彼女の率直さに笑った。

結婚後、姪は銀行員のご主人とニューヨークに赴いた。そこの大学で勉強した後、彼女も証券・銀行業界に入る。姪が自分のしたいことをできたのはよい伴侶に恵まれたからと思われる。自由を求める日本の女性が描く人生の軌跡は、ドイツの女性より屈折して変化に富んで面白い。

私は迷信深いのかもしれない。世界を変えた「9月11日」が姪の命日で、その日の重さのために彼女の魂が天国にむかって浮上できないような気がして仕方がなかった。私が数日間テレビをいっさい見なかったのはそのためと思われる。

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