「欧州どまんなか」 December  31, 2002
K所長の思い出

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私は自分がかなり気ままな人生を過ごしたと思っている。「すまじきものは宮仕え」とあるが、私もそんなことをしないですむすように心がけた。とはいっても、1970年代のはじめ京都で、私も四年近く人並みに毎日通勤する生活をしたことがある。

その職場はゲーテ・インスティトゥートと呼ばれるドイツ文化普及のための機関であった。そこでの上司がK所長で、彼は大男のドイツ人で太った赤ん坊のような顔をしていた。

当時はどこの国もおおらかで、必要がなくてもポジションを設けて人を雇う時代であった。そのためか、私は最初数ヶ月、たいした仕事もせずに月給だけもらい恐縮する。でもそのうちに文化行事を担当するようになった。

K所長はシベリアで数年間抑留された。帰還後しばらくして来日し大学でドイツ語教師をつとめるうちに京都のゲーテ・インスティトゥートの所長におさまった。

この経歴からわかるように、軍隊以外の組織で働いた経験がない彼といっしょに仕事をすることは困難をきわめた。日本人従業員はドイツ人とはこんなものかとあきらめているところがあったが、本国から派遣された人々とは摩擦が絶えず、任期を全うせず配置換えを申請する人もいた。現在ドイツの離婚率は国際結婚のほうがドイツ人同士の組み合わせより低い。これと似たような理屈で、私たちは文化が異なると相手に寛容であったことになる。

K所長と同世代のドイツ人は敗戦を境に徐々に変わったが、彼だけは日本で暮らしたためにそのままで、葉巻をくわえながら京都の街を歩く彼の姿には一九世紀ドイツの小説にでてくる小都市の名望家の面影があった。彼にとって他人は目上であるか目下であるかのどちらかでしかなく、前者は彼が自分から気づき挨拶する人間で、後者は彼に気がついて挨拶しない限り、存在しないも同然であった。K所長はこの点で日本人とドイツ人の区別をしなかったので、同国人から傲慢と思われた。

日本で暮らすドイツ人は異質な日本社会の後進性を批判する傾向があるが、私はK所長から日本の悪口を耳にしたことがなかった。これは彼がザクセン州出身者だったからかもしれない。ドレスデンを首都とするこの州は、権威主義的で批判精神の乏しい役人を大量にうみだしたことで知られる。まだ「ベルリンの壁」のある頃、知人が旧東独公務員の住む団地を「ここはベルリンのザクセン街」と笑ったことがある。

また日本社会が異質であることは彼に都合のよいことであった。どこの国でもこのような機関の所長には任期があり、それが終了すると本国に戻されて別の任地に派遣される。ところが、K所長だけはいつまでも京都にとどまることができた。

この特権は、彼が異質で特殊な日本社会に根をおろしたドイツ人と本国で見なされていたからである。一九世紀末のドイツからタイムカプセルで戦後の日本に飛来し、そのままいついてしまったK所長がヨーロッパのどこかの町で勤務する姿など誰にも想像できなかった。

日本が長く日本語を話したK所長は日本的コミュニケーションをしているうちに、自分のいわないことも他人が理解して承知していると考える癖がついてしまった。これは準備期間が必要な文化行事を担当している私や私の同僚にとって大問題であった。ドイツ人音楽家の訪日を二週間後に控え、突然コンサートをするといわれるのは困るからである。

この弊害をのぞくために、私はある時から文化行事に関して本部とK所長とのあいだの手紙のやりとりに眼を通すことにした。こうして彼がいわなくても私たちが承知していることになり、仕事が円滑に進むようになる。

当時大学を出たばかりの私にはすべてが目新しく勉強になった。私が特に驚いたのはドイツ人の作文能力である。例えば、私がコンサートの名前だけの後援の了承をとるために電話し、直ぐ返事をもらえなかっただけなのに、K所長の報告の手紙には「我々は日本社会で重要な協力機関との困難な交渉を開始した、、、」とあり、私はキョトンとし次の瞬間「ものは言いよう」と感心する。

このドイツ人の作文能力とは嘘をつかずにコトバによって現実を威厳あるものに昇格させる能力である。当時、青臭い文学青年であった私は自分がオトナの世界に触れたような気がした。ドイツで暮らすようになってから無数のドイツ人が書いたり話したりするのに接してきたのに、私は京都でK所長の手紙を読んでキョトンとしたときと自分があまり変わっていないのに気づくことがある。

K所長はハイデルベルクの郊外で晩年を過ごした。一度もらった手紙に写真が入っていて、それは庭の桜の木を前にした家族写真であった。彼の子供たちは大人になったのに、彼だけは赤ん坊のような顔で、私が京都で見た頃と同じであった。

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