「欧州どまんなか」 January  28, 2003
日本人であること

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私が京都で生まれてはじめてパスポートをもらったのは、六〇年代の終わり頃だった。当時外国旅行がまだめずらしい時代で、誇らしい気がしたのか、私は知人のドイツ人女性にもらったばかりのパスポートをみせた。

彼女は「私はたくさんもっている」と笑って、机の引出しの中から三つもパスポートを取りだしてみせてくれた。それはドイツとオーストリアとスイスので、私は仰天する。当時私はドイツ語があまりできなかった。彼女のおじいさんがオーストリア人であったところまではわかったが、結局彼女がなぜ三つの国籍をもっているのかは、よく理解できなかった。聞きながらか、後になってか忘れたが、お父さんがノーベル化学賞受賞者で彼女も色々な国で暮らしたからだと想像した。

彼女は三重国籍だったが、ヨーロッパで二重国籍は珍しいことではない。国家間で成員名簿を相互に交換・チェックする機会がないので、二重国籍は不可避とされる。

国籍法には血統主義と生地主義の区別がある。前者は、血縁を重視して、子供に親と同じ国籍をあたえる。後者は父母の国籍と無関係に自国領土で生まれた子供に国籍をあたえ、国民にする方式である。

ヨーロッパではフランスが代表的な生地主義の国で、アルジェリア人を父にもち、マルセイユ生まれのサッカーのジダン選手がその有名な例である。反対にドイツは二年ほど前まで典型的な血統主義の国で、ドイツで生まれたトルコ人の子供はドイツ国籍が取得できなかった。

国籍法は国民の法的定義であるが、同時に自分の国をどのように考えているかの表現でもある。日本は国籍法では、かってのドイツと同じように血統主義の国とされるが、私は昔からかなり違うと思っている。

日本人が自分の国を考えたとき、領土という空間的要素が決定的な意味をもつのではないのだろうか。本当に血統主義なら、擬似的親族関係にある日本国民が、どこへ行こうが、いつまでも日本人である。ちょうど何百年も前にロシアへ移住したドイツ人がドイツ人としてとどまるようにである。私には、日本人はそうでないと思われる。というのは、日本人であることに日本の国土に生存することが含まれているからである。昔「日本沈没」という小説があったが、この題名があたえた衝撃の一部は、私たちの意識に日本の国土と一蓮托生という気持があるためではないのだろうか。

日本国民が返還を要求している「北方領土」に日本人が住んでいないと、昔私から聞いたドイツの右翼の政治家が絶句した。しばらくして彼は「りっぱだ」と感心した。彼は、日本人が「北方領土」に居住していると思っていたのである。彼がそう思っていたのは、彼の国家観では国家とは領土と住民がくっついてセットになったものだからである。私たちには、日本人が居住していない空間も「我が国固有の領土」で不思議でない。このことは、私たちが日本の国を考えたときに、領土という空間がその中の人間よりはるかに重要であることをしめす。

私たちは呼び名をかえることが好きであるが、外国人の国籍取得には今でも「帰化」という古風な表現をつかう。この表現は、「帰化植物」というコトバがあるように、外国から来た人間が日本の水に慣れて日本の土に化すようなイメージとむすびつく。国籍を取得する外国人をこのように見ている以上、これは、私たちが無意識のうちに、日本人を日本の土に生えている草木のように思っていることにならないだろうか。

私の学生時代には、戦前弾圧で転向した左翼知識人の問題が盛んに論じられた。ドイツに転向現象がなかったのは、多数の人が外国に亡命したからである。日本は島国かもしれないが、当時交通機関もあったので亡命しようと思えばできたのである。ところが、大多数がそうしなかった。これも、日本の土壌に咲く草花が外国で枯れるように、私たちが心のどこかで日本の領土を離れたら、日本人でなくなるとか、日本人として質的に劣化すると思ったからではないのだろうか。

ナチの弾圧を逃れて外国に亡命したドイツ人は、このような不安から縁遠い。彼らは亡命中日常生活で苦労をしたが、自国から離れることでドイツ人として質的に劣化するなど考えなかった。それどころか、多くの人々は自分たちこそ外国で「真の良きドイツ」を保持し、自分が後にしたドイツこそ「非ドイツ的な」ナチの巣窟になり劣化したと考えた。

このような亡命・ドイツ知識人を見て、私たちのほうは、彼らが自国を留守にしているのに「ドイツを代表して自信過剰だ」と感じる。(私はこの感想を日本人研究者から聞いたことがある)。こう私たちが感じるのは、ドイツ人も日本人と同じように自国の領土や国民や文化を考えていると、私たちが勝手に思ってしまっているからではないのだろうか。

このように、個人の国家に属することの受けとめ方は、国によってずいぶん違ってくるもので、これは誰かと話したり、何か読んだりするたびに私が感じることである。

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