「欧州どまんなか」 May  27, 2003

万人の万人に対する戦い

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少し前、中東関係者の親睦団体「ドイツ・アラビア協会」から配布されたニュースレターにバクダット滞在中の考古学者のメールが掲載されていた。差出人は昔から毎年のように発掘のためにイラク滞在したことのある人である。

この考古学者は、占領米軍が住民を略奪するように誘ったり黙認したりして無法状態をもたらしことを憤慨する。現在市内では頻繁に銃声が聞こえ、強盗、略奪、放火、殺人、強姦が横行していて、市民は外出するときには闇市で入手した武器を携帯しなければいけないという。

メールを読みながら私の脳裏に浮かんだのは、数週間前に読んだネオコン(新保守主義)知識人のロバート・ケーガンの本である。この「権力と無力」(独訳題名)の中で、著者は、イラク戦争をきっかけに表面化した米・欧の対立の根底には大きな政治観の相違があることを指摘する。

出版当時話題を呼んだこの本の中のキーワードは「ホッブズ的現実」である。この現実とは、17世紀の英国の哲学者ホッブズが「リヴァイアサン」のなかで国家の成立を説明するためにもち出した「万人の万人に対する戦い」という「自然状態」で、現在武装して外出するバグダット市民の置かれた状況もこれに近いかもしれない。

著者によると米国はこの「ホッブズ的現実」を意識し秩序を支える力という要因を重視する。そのため米国は問題の迅速かつ徹底的な解決をめざす。反対に欧州は、国際法や条約順守、国連をもち出して埒があかない。これは、欧州が統合をすすめるうちに「ホッブズ的現実」と権力政治を忘れ、「カント的永遠平和」が支配する世界に暮らしていると錯覚しているからだ。この本の英語原題「楽園と権力」の「楽園」は欧州の人々が苛酷な現実から眼をそむける傾向をさしているので、著者は欧州がノンキ者の極楽とんぼといいたいのである。

欧州がイラクを脅威と感じなかったことも、また軍備増強に努力もしないで国民の福祉ばかりにかまけているのも、極楽とんぼ的メガネで世界を見ているからで、欧州は世界的秩序を維持する責任を果たす気がない。反対に米国は軍事力の向上に努め、「ホッブズ的無政府状態の世界で権力を行使し」、世界秩序を支えている。

米国がこうして秩序を維持するがらこそ、欧州は「カント的永遠平和」を享受できるのに、極楽とんぼらしいことに、それに気がつかない。この状況が続くと、「米国は欧州の批判をまじめにとりあげたり尊重したりしなくなる。米がEUの発言に東南アジア諸国連合(ASEAN)やアンデス共同体と同じ程度の注意しかを払わない日が、まだそうなっていないとすれば、必ずやって来るだろう」と著者のケーガンは警告する。

「権力と無力」を読んだ日本人は、米国の「安保ただ乗り」批判を思い出すかもしれない。「相手変われど主変わらず」で、当時の「エコノミック・アニマル」批判が欧州の福祉体制・国際協調路線非難に入れ代わっただけである。また読者は120頁のこの本のどこをあけても似たようなセンテンスに出くわして金太郎飴を連想するかもしれない。これは著者の思考が少々ワンパターンだからである。

国内であろうが、また国際社会であろうが、秩序の維持に武力が必要なことは自明である。著者はホッブズを挙げるが、この武力がどのような条件で効果を発揮して秩序を築くかという問題について本当に考えたことがあるのだろうか。この点にヨーロッパ人読者の多くは疑問を抱くようである。

米国の最新ハイテク兵器も大量殺戮兵器も、敵が眼に見える形、例えば国家の体裁をとっていてはじめて有効になるのではないのだろうか。この事情はパレスチナ紛争を考えればわかるはずである。冒頭のドイツ人考古学者は「米国人が出て行かないなら、いつか戦う。毎日二人殺せば、時がたつうちにけっこうな数になる」というバグダット市民の声を紹介している。

「極楽とんぼ」扱いにされた人々が9.11以来脅威と感じるのは「ならず者国家」でなく、国家でなくなった「見えない敵」からのテロリズムである。それなのに、米国は自分が一番得意とする国家相手の戦争をして、その度に「ホッブズ的現実」が支配する世界を広げていることになる。

どんな残酷な独裁国家にも刑法的秩序があることは、現在バグダット市民が日々経験している通りである。著者の考える「ホッブズ的現実」など本当に存在するのだろうか。

米国社会がホッブズの「万人の万人に対する戦い」に親和力をもつことは、容易に銃器を所持できるこの国の特殊事情にも反映する。開拓時代のこの習慣が残っているのは、自国の成り立ちを思い出すためで、一種の建国神話でもある。よく西部劇映画に酒場で二人同士のケンカから全員が殴り合いをはじめる場面がある。これは建国神話、「ホッブズ的現実」のパロディーである。映画館の中で笑っているぶんにはいいが、他国の建国神話を強制させられる人々には迷惑千万である。

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