「欧州どまんなか」 June  03, 2003
移植外科医の無断欠勤

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1968年、大学紛争の頃のことである。大学の付属病院で入院患者から「ベッド料」をとり副収入にしていたことで槍玉にあげられている教授がいた。

父も同じ病院に勤務していたので、尋ねると彼は批判されている同僚を「やり過ぎ」としながらも、ドイツの大学病院の例をあげて弁護する。ドイツのプロフェッサーは給料をもらいながら、大学病院で助手や看護婦をこき使い、自分個人の患者を診察したり手術したりして懐を肥やしている。これは、勤務先の病院のなかで開業しているようなもので、これと比べて同僚の「ベッド料」など些細なことだと父は笑った。

当時、「万事にきちんとしたドイツ人」がそんな「公私混同」をすることに私は半信半疑であった。でも父が嘘をついているようにはどうしても思えなかった。

それから何十年もたったある時、ドイツで暮らす私は事故を起こし病院に担ぎ込まれて手術された。退院後、包帯交換のために私は通院することになる。天井の高い廊下で外来患者は主治医の診療室の前に坐って待つ。何度か通ううちに、隣の若い医者のほうはあまり待たないですむのに、自分が本当に長時間待つことに気がついた。私の主治医は教授で、看護婦が特別に気をつかっているようにみえた。彼が私の足に包帯をしかけると、知らない間に包帯は看護婦の手に移っていた。

ある日、私はまた長い間待たされた。診療室から看護婦が現われ「プロフェッサーはもう直ぐ来る」と私を慰める。チャンス到来と思って、私は、些細なことで教授の貴重な時間を費やすのは自分に精神的重圧であり、次回から隣の医者にかかりたい彼女にお願いする。彼女は私が教授の「私的患者」であるために難しいと困惑した。このコトバで、私は昔父が話したことを思い出す。

ドイツ国民の大多数は公的健康保険に加盟しているが、当時自営業者の私は民間保険で、教授の「私的患者」にされたのである。その日、いつもの包帯交換が終わると、主治医の教授は私が術後順調で、もう通院の必要がないと診断してくれた。

その後色々な人から聞いてわかったが、父が話したことはほぼ正しく、今でもドイツの病院で「公私混同」が実施されている。但し勤務先の施設や人力を利用するので、手術料や診察料はまるもうけではなく一部を病院に上納する。でもこのような副収入は本給の数倍にのぼるといわれる。

この特権は医療関係法で保護されているので、「公私混同」にならない。不都合なことを気にならないように合法化するのは「万事にきちんとしたドイツ人」の得意技である。昔父が笑ったのも本当はそのことだったかもしれない。でも、ドイツ人から見たら、紹介者を必要としたりする日本の付け届け方式は不透明で煩雑過ぎる。またこれのほうが脱税は容易である。

ドイツ方式では「公私混同」のチェックをするのは本人だけで、濫用されて病院の経営全体が傾くことがある。お役所に勤める運転手が公用車をタクシーとして使って収入を倍増したらおかしいのに、医者で教授となるとそれが許されるのは、彼らがコワモテするからである。

ドイツの医療体制の赤字は大問題で、なかでも病院は「金食い虫」である。コスト削減が試みられるが、この奇妙な副業制度は問題にされない。これは政治家もジャーナリストも自分がいつなんどき病院の世話になるかわからないからである。

数日前からミュンヘンで話題になっている事件も、このようなドイツの制度を背景にすると更に興味深い。

ミュンヘン大学・付属病院は臓器移植で有名で、ここの臓器移植センター所長ヴァルター・ラント教授はドイツ臓器移植学会の会長もつとめる。事件は、この高名な移植外科医のラント教授が無断欠勤をしたことである。彼は五人の医者と三人の看護婦を引き連れて移植センターの医療器具を携えてアラブ首長国連邦のアブダビに消えてしまった。これは、教授が「大統領親族の重要人物に腎臓移植手術をする」ためで、十六日間のアブダビ滞在中、彼が病院側と連絡しなかったのは、「イラク戦争後の不安定な中東情勢を考慮した」ためとされる。

当然巨額の手術料がラント教授に支払われたと推定されるが、正式の批判は無断欠勤をしたことだけである。これも大学病院内で教授の副業を許可する奇妙な制度のためである。でもこの方式はどこかで人々の常識に反するので、この無断欠勤が噂や憶測の対象になり、本人は現在雲隠れしたままである。

ラント教授がお金を必要とした動機が噂の種になる。ドイツの病院に来るアラブの富豪はイラク戦争で急増した。なぜこの患者はドイツで手術を受けなかったのだろうか、、、腎臓移植手術を受けたのは誰か、、、9.11以来世界中がその消息を知りたいと思っている人も、確か腎臓移植手術を受けようとした、、、また移植手術を受けた情報が今まで何度流れたことか、、、こうして憶測が憶測をうみ、噂はなかなかとまらない。

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