「欧州どまんなか」 June  24, 2003
輝く小さなイモムシ

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ドイツ文学を私がまだマジメに勉強していた頃のことである。私はゼミで一九世紀末に発刊されたある雑誌を引き受けて、毎日図書館で眼についたものをかたっぱしから読んだ。

ある時ページを繰ると「輝く小さなイモムシ」という題名の小説があった。連載でなくその号で終わっているのを確認した私は読みはじめる。どこの国にでもありそう筋で、ある小さな町に住む女性主人公が、夏休みに帰省した大学生と何度か会ううちに心をひかれるようになる話であった。

ある夕方、二人は庭で話しをしている。あたりが暗闇に包まれ、二人の手が何かの拍子に触れあう。男がお世辞をいうと、「この言葉こそ、彼女が聞くことをこがれ、また絶えず警戒していたものであった」とある。その後、「彼女はうっとりし、男が何かを語るのに、沈黙したままであった。一度だけ彼女に、町の塔の時計が時を告げるのがかすかに聞こえた」という意味の文章が来て、「輝く小さなイモムシ」が何匹も空中を飛びまわるのを女性主人公が眼にする。

読んでいる私は困惑する。羽根がなく地面や木の枝の上を這うはずのイモムシが飛びはじめたからである。ドイツ人は「イモムシ」などと奇妙なことをいうが、もしかしたら、この国にも日本の蛍のような虫がいるのではないのだろうか。この疑惑が私の脳裏をかすめた。でも横着で辞書を携帯しない私には確認のしようがない。小説のほうは、章がそこで終わっていた。

主人公の女性と大学生の間には、いったい何が起こったのだろうか。私にはこの点が気にかかった。少し前ゼミで誰かが男女関係の描写について発表した。発表者の見解によると、小説の中で性的関係があったかどうかは特定できないようになっているが、当時の読者には起こったことがわかっていた。発表は議論を呼んだ。

議論を聞きながら、私は明治生まれの祖母が外出する姉に発した警告を思い出す。若いの男女が密室にいっしょにいることがふしだらなことであり、また世間もそう思い、実際にそこで起こったことなど重要でない。そのように子供の私には、祖母がいっていたことが理解された。

祖母からのヒントで、私は、当時の読者にとって作中の女性人物が心を任せただけか、身まで任せたかどうかという区別そのものが重要でなかったという意見をいう。たいして根拠もない日本人のこのコメントに賛同者が多数出てきて議論が続く。これは発表者が雄弁で頭がよく、他の学生が少し反感を抱いていたためで、当時ゼミの議論でよくあったことである。

小説のほうは、親しくなった大学生がその後帰省しても女性主人公を避け、結局彼女は別の男性と結婚する。小説は、母親になってから彼女が飛んでいる「輝く小さなイモムシ」を見て「一夏の恋」を思い出す場面で終わっていた。読了後帰宅した私は独和辞典を引いてこの奇妙なイモムシが蛍であることを確認した。作者の名前も覚えていないが、でもドイツに蛍がいることを私に教えてくれた小説として記憶に残る。

その後、私は長いあいだ蛍のことを考えない。私がドイツの蛍を見たのは父親になってからである。ある夏の夜、庭で妻が子供たちに願い事を心に思い浮かべるようにいっている。それは蛍が飛んでいるからであった。

ドイツの蛍の光は日本のと比べてはるかに弱い。ドイツ人は流れ星に願掛けをする。彼らが蛍にもそうするのは、発光時間も短く、あっという間に闇のなかにすいこまれるからだ。

子供の頃父が、蛍がいっぱい入っている虫かごをお土産にくれた。高校時代、私は京都の丹波の山里で夏休みを過ごした。段々になった田んぼの畦道を歩いていると無数の蛍が乱舞しているのが見えた。

日本の蛍が放つ光は黄色っぽくて鮮やかである。ドイツのほうは青色で悲しげな感じがする。ドイツ人はこの色を緑色と表現する。ドイツの交通信号は「赤、黄色、緑」で、私たちに青のところが彼らには緑になるようである。

日本の蛍は小川の中でカワニナを食して幼虫時代を過ごす。小川がコンクリートで固められたり農薬が投入されたりして日本の蛍はどんどん消えてしまった。ドイツの蛍の幼虫は野原や森に棲みカタツムリを食べるそうである。

ドイツには虫をつかまえたりして遊ぶ習慣がないようで、昔息子とトンボをつかまえて遊ぼうとした私は妻から反対された。この国の人々の意識では、昆虫は人間が本当は関係をもたない別世界の住民で「虫けら」ある。日本には昔蛍狩りがあったし、私は昔見たゲンジボタルの姿を今でもよく覚えている。反対に自分の庭を飛ぶ蛍がどんな姿をしているかを知るドイツ人は皆無に近い。だから「イモムシ」扱いしても気にならない。

ドイツは今年六月、温度も湿度も高かった。そのせいか我が家の庭を飛ぶ蛍は例年よりはるかに多い。

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