「欧州どまんなか」 July  15, 2003
独伊「パスタ戦争」

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シュレーダー独首相はイタリアのアドリア海でバカンスを過ごす予定であったが、これを取りやめた。こうなったのは、少し前ベルルスコーニ伊首相が欧州議会でドイツ人のシュルツ議員に、映画でナチ・強制収容所で看守の手先になる囚人に適役で、是非推薦すると発言したからである。この暴言に対して、シュルツ議員は「犠牲者に対する畏敬の念が、私にコメントすることを禁じる」と反応した。

議場の欧州議員だけでなく、大多数のヨーロッパ人がこの暴言にあきれて首をかしげた。シュルツ議員も伊首相に「あなたの閣僚の知能指数に、あなたは責任がない、、」とか、「訴追免責特権の剥奪を遅らせた人のおかげで、あなたは(監獄に行かないで)ここにいる」といった発言をして怒らせていたので、「売り言葉に買い言葉」の口喧嘩であった。

伊首相の暴言はシュルツ議員個人に向けられたもので、それがルール違反であれば欧州議会の問題で、ドイツ政府とは直接関係がない。ところが、おもしろいことに、シュレーダー首相はイタリア首相に対して公式に謝罪を要求する。

外交用語では本来、国家や国家の代表者は「謝罪する」の述語の主語になりにくい。国家主権・概念と結びついたこの古い考えが欧州統合で希薄になったといっても、伊首相がこんな要求に応じない。その後、両国首相間で電話会談があり、ドイツ側は「伊首相が謝罪したと評価する」と発表したが、翌日ベルルスコーニ首相から謝った覚えがないとばらされて、シュレーダー首相の面子がまるつぶれになる。

ほどなくして、シュレーダー首相に救いの手がさしのべられた。それは、イタリア連立政権の観光担当次官で、新聞の寄稿記事の中でドイツ人バカンス客を「イタリアの海岸に押し寄せるうるさくて画一的な金髪の超国粋主義者」と呼んでくれたからである。

これで、シュレーダー首相は伊政府がこの「反ドイツ的発言」を容認するのならイタリアでバカンスをしないとゴネルことができるようになる。ところが、連立政権内のもめごとでベルルスコーニ首相はなかなか反応してくれない。こうして振り上げた手のもって行き場所がなくなり、バカンスはハノーバーの自宅。その直後、観光担当次官が辞任し、シュレーダー首相はアドリア海で来年のバカンスを過ごすことを約束し、独伊「パスタ戦争」(シュピーゲル誌)は終了する。でも、なぜシュレーダー首相はベルルスコーニ発言にこれほど固執したのか。

戦後西ドイツでは、ナチの過去について発言するときの作法体系が習慣として定着してしまったとされる。「犠牲者に対する畏敬の念が、私にコメントすることを禁じる」といったシュルツ議員の紋切り型の発言も、その例の一つである。

例えば日本人なら、誰かに「今『南京大虐殺』の映画の撮影中で、君はその中で中国人の女性を暴行する日本兵の役にふさわしい」などといわれたら、シュルツ議員のようにこたえられない。これは、異なった条件下の日本の戦後にドイツのような習慣が形成されなかったからである。日本でドイツのこの習慣をうらやましがるのは、フォークとナイフで食べる風習をハイカラと感じた明治の開国時とかわらないかもしれない。

次に重要な点は、シュルツ議員の紋切り型に多くのドイツ人自身が不自然と感じていることである。

私は、隣国で些細なトラブルから「ナチのブタ野郎」と罵られたドイツ人を何人も知っている。例えば、相手の運転が下手で自分のクルマのボディーをへこまされ、更に「ナチ扱い」されたときに、「犠牲者に対する畏敬の念が私にコメントすることを禁じる」などというセリフは精神衛生に悪い。「ボディーがへこんでいる」とコメントしたら「ナチの犠牲者に対する畏敬の念」が少なくなるのであろうか。そう思うドイツ人は少なくない。

シュレーダー首相はこのような国民感情を嗅ぎ取り、以前からこの点で新機軸を打ちだそうとしていたといわれる。だから彼は今回のベルルスコーニ発言をチャンスとばかり利用した。世論調査によると、ドイツ国民の七割近くが首相のイタリア・バカンスの中止を当然の反応として支持している。

犠牲者に対して畏敬の念を抱きそれを表現することは、どこの社会でも見られる良い風習である。でもナチの犠牲者に対する畏敬の念からコメントしたくないとする戦後西ドイツ国民の考え方は独特である。これは、隣国の国民にもコメントして欲しくないという密かな願望、間接的要求であったのではないのか。とすると、今では形骸化した紋切り型の発言も、戦後困難な国際環境にあったドイツ国民の精神的防備として機能したことになり、何かいじらしい。

それだけに、ナチの犠牲者に対して自国民が抱く畏敬の念の深さを誇りに思い、他国民に対して道徳的優越感を抱くドイツ人がメディアで羽振りをきかせるようになったことを、私は残念に思っていた。今回、この硬直した作法体系が緩み少しでも自由になるのなら、本当によろこばしいことである。

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