「欧州どまんなか」 July  22, 2003
共同体幻想

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前回イタリアの政治家の失言について書いたためか、友人からメールが来た。本文には長崎の男児誘拐殺人事件の簡単な説明があり、添付された新聞記事を読むように書いてある。記事は日本の政治家の発言を扱ったもので、多くの人に知られていると思われるが、引用する。

「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」

子供のとき、私は学校の期末試験が終わるとよくクラスメートとネズミがスクリーンの下を走る場末の映画館へ駆け込んだ。東映の時代劇全盛時代で、「引き回し」や「打ち首」といった表現から、私には当時見た映画を思い出される。記事がピンと来ないまま、私は友人に日本が懐かしく思い出されたと、感謝のメールを返した。

でも気になったのか、私は関連記事を読む。多数の日本人が「的を射ているとは言い難いが、国民の気持ちを代弁している」と感じているそうである。これは何を意味するのだろうか。

発言した政治家は、「加害者の人権を優先し、被害者の人権を無視する風潮」に反対するのが自分の本意であったと説明する。ということは、「嘆き悲しむ被害者の家族」がテレビに映されて、メディアの晒し者にされることを人権侵害と見なしていることになる。それなら、この点にだけ反対すればよいと思われるが、この政治家は加害者側もメディアの晒し者にすること、すなわち人権無視を要求する。

この結果、人権無視という望ましくない状態が一つだったのが、二つに増えるが、この点がこの政治家に気にならない。こうなのは、彼が「加害者の親も、担任も、校長も(テレビに)顔を見せ」て謝ったり反省したりするのを見ていると、「日本中の親が自覚し」少年犯罪の防止に役立つ考えているからで、人権などいってみただけである。

ところが、報道の自由とプライバシーの保護は、一方が知ろうとし他方が知られたくないとする以上、真っ向から対立し相反する権利である。どこで線を引くかはいつも厄介な重要問題で、ヨーロッパでも国によってかなり異なる。

ドイツでは、刑事事件、また事故でも加害者、被害者並びに犠牲者の氏名はイニシャルで、顔写真は公開されない。例外は本人が許可したとか、捜査上の必要性とかいったケースに限られている。こうであるのは、名前や顔を知らなくても事件の理解が可能である考えるからである。また公開された場合の問題点、例えば加害者の服役後の社会復帰を困難にしないこことも公表しない重要な理由である。

昨年エルフルトで少年が16人を銃で殺し自殺するという衝撃的事件が起きた。学校の関係者や近所の人以外、被害者の氏名を誰も知らない。当時、市当局は葬儀のあった市営墓地を立ち入り禁止にしたが、これも本当に親しかった人々が落ち着いて犠牲者と最後の別れをすることを尊重すべき私的領域と見なしたからである。

日本のメディアはドイツと正反対で、事件関係者の氏名や顔写真を出す。この結果、事件関係者をできるだけ「近所の人」のように身近に感じさせるように報道することになる。

30年以上前、メディアの理論家マクルーハンが、テレビの発達でニュースを人々が同時に知るこようになり、その結果現代社会が「部族社会」に逆戻りし、「地球村」が出現すると予言した。現状は「地球村」にほど遠いが、「日本村」のほうは確実に実現したように思われる。だからこそ、事件の関係者をテレビで反省・謝罪させると「日本中の親が自覚する」と期待する政治家が現われるのではないのだろうか。こんな発想は、近代国家の政策提案でなく、日本の村社会、あるいは学校のスポーツクラブを連想させる。メディアも、事件関係者を身近に描こうとする以上、「日本村」の出現に大きな貢献をしたことになるように私には思われる。

このような「日本村」はテレビというメディアを媒介にしてできた共同体幻想で、昔の日本の村落でもなく、また一億以上の国民が暮らす複雑な近代国家でもない、どっちつかずの存在である。またそのためか、手応えのある現実がどんどん喪失していくのではないのか。今回の発言も、また過去に繰り返された物議をかもす政治家の発言もどこまで本気でいっているかわかりにくいが、この現実感喪失の反映のように思われる。

日本には昔からの風習で、故人の多数の知人・友人が葬式にあらわれる。メディア関係者もそのような人々にまじって、遺族がプライバシーの侵害と感じられない状態で取材したり撮影したりするのだと思われる。でも子供を失った親が悲しむのは、誰でも想像できることであり、これは相手の足を踏んで痛いかきくようなものである。

あまりにもあたりまえのことを見聞しているうちに、人々が想像力を失っていくことのほうが、私には心配である。

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