「欧州どまんなか」 August  05, 2003
無益な殺生はいけない

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ドイツは州によって学校の夏休みがずれて始まる。大雑把にいうと、北の州のから夏休みに突入し、南の州は始まるのが遅れる。これはバカンス客の混雑を避けるためである。

私は、長いあいだドイツで暮らしながら、はじめて日本で学校の夏休みがミュンヘンより数日前にはじまることに気がついた。というのは、インターネットで私が日本で夏休みを迎える学校の終業式の新聞記事を読んでいると、我が家でも夏休みを前にする子供たちがはしゃいでいたからである。

終業式が記事になったのは長崎や沖縄で未成年者の犯罪があったからで、校長先生が小中学校終業式で子供たちに「命の大切さわかって」と訴えている。ここで、私はまた別のことに気づく。それは、ドイツで似たような事件があってもこのような声があがらないことである。

命はかけがえのないもの、尊重されるべきもので、人を殺すのはこの考え方が欠けているからだ、と私たちは考えるようだ。ドイツ人はそう考えないから何もいわないのだろうか。

偶然、その日の晩ワインを飲みに我が家に集まった数人のドイツ人にこの点を問いただす。全員が「我々も人命が大切で人殺しをしてはいけないと思っている」と気を悪くする。(日本のように)「命がたいせつ」などと誰も今更いわないのは、皆が知っていてあたりまえのことだからだと、誰かがいいだす。

そのうちに、放送局に勤務し日本にも何度か滞在したことのある男性が「雨が降ると道路がぬれることは自明で、誰もいわない。とすると人命の尊重が強調されるのは日本ではあたりまえでないからだ」といいだした。証拠として、日本に昔から自殺が多いことを彼が指摘すると、全員がうなずく。

キリスト教文化圏では、本来人間の命を所有するのは神であり人間は自分の命の管理者に過ぎない。自殺とは雇われ社長が株主に無断に企業財産を処理するのに似ている。だから自殺者は生命の尊厳の無視する罪人とされ、墓地が教会の管理下にあった昔はその埋葬が拒まれた。

私もそうだが、多くの日本人は自殺をそれほど悪いことと思っていない。自殺は生物的本能に逆らい、無理なところがある。自殺という生命の尊厳の無視が悪いことでなければ、他人の生命の尊厳を無視することに対するタブー度は、生物的本能に逆らっていない分だけ弱くなる。

私がそんなことを考えていると、誰かが日本に死刑があるといいだす。EU加盟国は国家が率先して生命の尊厳の考え方をしめすために死刑を廃止した。お喋りを聞くうちに昔の日本の最高裁判決に出てくる「一人の生命は全地球より重い」という名文句が私の脳裏に浮かんだ。この判決が死刑を合憲としたものであるだけに私は皮肉な気分になる。

ヨーロッパでは人命の定義について昔から延々と議論している。妊娠中絶も定義によって殺人になる。この種の生命倫理の議論に大多数の日本人は無頓着である。そのためにキリスト教文化圏の出身者には、人の命を大切にする考えが日本社会であたりまえでないようにみえる。だから小中学校の校長先生が生徒に訴える必要がある。彼らはそう考えている。

でも本当にそうなのだろうか。どこの社会でもむやみに人を殺すことはタブーである。私も日本で育ちこの考えを身につけ、殺人をすることなく現在に至る。だから日本社会で人殺しが悪いことになっていないと思われるのは心外である。

次に、あたりまえのことはいわないというのはいつも正しくない。あたりまえのことをいう儀式的コミュニケーションはどこの国にもある。

「命の大切さ」といってもヨーロッパ人のように自殺や死刑や妊娠の中絶や、また生命倫理の議論と結びつかないのは、日本の「命」の意味が異なるからで、私たちは本来生き物全部を含めて考えている。日本の報道で小動物の虐待が未成年者の犯行の前兆とみなされるのもそのためで、ドイツならそんなことがあっても見逃されたと思われる。子供のとき私は虫取りをして祖母に「無益な殺生はいけない」と叱られたが、私たちの道徳的感性は今でも変わっていないのではないのか。

欧米人の「人命の尊厳」が前提とするのは、「神に似た」特別な存在の人間という考え方で、これは私たちにピンと来ない。ピンと来なければ正直にそう思うしかない。日本人から見たら、中絶などの生命倫理の議論は、往生際の悪い「元キリスト教徒」が「人殺し」の汚名を怖れて「免罪符」欲しさにワイワイ騒いでいるだけになる。

私たちには、「無益な殺生はいけない」に戻るしかないのではないのだろうか。私たちが魚や肉を食べる以上「命の大切さ」を訴えても無意味である。とすると、人を殺すことが無益で、人迷惑で、本人にも損であることを説明するしかない。聞きかじった名文句をいって話を儀式的なものにするより、そのほうが子供たちにわかりやすかったのではないのだろうか。

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