「欧州どまんなか」 August  12, 2003
キル・レートと「俘虜記」

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今また、私は大岡昇平の「俘虜記」を探している、、、、、

「俘虜記」は、フィリピン・ミンドロ島で捕虜になった日本兵の手記である。主人公は眼前に現われた米兵を撃たない。

人間には人殺しを抑制する機構が備わっているのかもしれない。一年ぐらい前から欧米のメディアでこの種の議論が私の眼にとまる。(そのたびに私は、主人公がなぜ撃たなかったかを書いた「俘虜記」のその箇所が読みたくなる)。現在の議論の出発点は、近代の戦争で「汝殺すべき」の戦闘中、多くの兵士が敵兵を殺すことをためらった事実である。

例えば、昔プロシアは欧州随一の精鋭陸軍を誇っていた。訓練を積んだ五百人の兵士を擁する歩兵大隊は、理屈からいえば、多数の敵兵を殺害したり負傷させたりすることができたはずである。ところが、本当の戦闘での敵の被害はあまり大きくなかった。これは、多くの兵士が敵兵をねらって撃たず、わざと的をはずすことが多かったからと説明される。

米国・南北戦争のゲティスバーグで戦いの後に拾い集められ二万七千丁の銃のうち使用された痕跡がないものが多数あった。この議論で兵士が敵兵を殺そうとねらって撃つ割り合いがキル・レート(殺人率)と呼ばれる。独国防軍の研究では、この率が第二次大戦で15%から20%で低かった。

動物には同種に属するナカマを殺さないようにする抑制機構が備わっている。これは、コンラート・ローレンツ等の比較行動学者に指摘されたことで、オオカミの例がよくあげられる。個体間の闘争で弱いオオカミが喉や腹をみせると強いほうに殺し抑制機構が働く。強い個体に抑制機構を作動させる行動は、弱者の子供やヒナの振る舞いを連想させるとされる。

前世紀の七〇年代ぐらいから、この抑制機構がいつも働くわけでなく、同種内の殺しの例が色々知られるようになる。英国の動物学者のジェーン・グドールが観察した「チンパンジーの戦争」もその一つである。

人間に同種のナカマを殺さない抑制機構が備わっているかどうか、また備わっているとしたら他の要因とどのように関連し働くかといったことはよく知られていない。またこの殺しの抑制機構は眼に見える敵と戦う歩兵に働くもので、砲撃戦や爆撃やミサイルによる核戦争となると話は別になる。

第二次世界大戦終了後、米軍はこの問題に注目し独国防軍の心理学者を米国に連れて行き、キル・レートの向上に励む。こうして朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%に達することに成功したといわれる。

これは兵士の訓練法を変えたからで、射撃訓練の的を人間のシルエットに変えるだけでもかなりの成果をあげることできた。また現在ではコンピューター技術を駆使して、現実の戦闘状況を錯覚させるシミュレーターを用いて兵士を訓練している。

このような訓練は、敵の姿(=刺激)を知覚した瞬間に撃つという条件反射のパターンを兵士に刷り込み、人殺しの抑制機能を働かせなくすることで、人間が機械に、ロボットになることでもある。とすると、今イラク国民はロボット部隊に占領されていることにならないか。でも生物体である人間がロボットになるなんて不可能であるが、これは「頭の良い秀才」がどこの国でも夢想しがちなことである、、、、、、、

ここで、私はまた「俘虜記」をさがしはじめる。私に蔵書が多いのは昔本屋をしていたときの売れ残りで自分の無能の証拠である。欧州は猛暑で外は40度に近いが、本がある地下室はひんやりとしている。誰かが借りたのだろうか。そんな日本人が今でもいたら、私はうれしい。見つけることを諦めた私は絨毯の上に横になり昔読んだ「俘虜記」を思い出そうとする。

マラリアで衰弱し草原に横たわる主人公は遠くからゆっくりと近づく米兵に気がつく。主人公は銃の安全装置をはずすが、撃たないでいる。そのとき近くで機銃の音が聞こえて、米兵はそちらへ向って歩み、主人公の視界から消える。起こったことはそれだけである。

「俘虜記」の米兵は、あの時主人公にあまりにも無防備に見えた。そんな印象を、私は記憶する。次に米兵は頬がバラ色で幼さをどこかに残していた。だから米兵が視界から消えた後「俺もこれで見も知らない米国人の母親に感謝されていい」という気障なセリフが主人公の脳裏をかすめる。ローレンツの「殺しの抑制機能」が働いたのだろうか。そんなことを考えていると、私は少し眠くなる。

「俘虜記」はキル・レートが20%以下で、兵士が「ロボット」でなかった時代の話である。ここで、数時間前に読んだ「米軍イラク住民にまた発砲」の記事が頭に浮かぶ。子供の私は米軍兵士が好きだった。私たち子供たちは遊びに退屈すると、よく近くの兵舎の壁に攀じ登って彼らを眺めた。こんな思い出に耽っているうちに、私は本格的に寝込んでしまったのである。

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