「欧州どまんなか」 August  19, 2003
人は何のために口をきくのか

バックナンバー目次に戻る


モーターボートは私たちが乗っているゴムボートを引っ張ろうとするが、四人も乗っているのでなかなか進むことができない。「岸まで泳げるか」と尋ねられた私は肯く。昔日本海で遠泳に参加したので小さなイタリアの湖など簡単に横断できるような気がしていた。こうしてゴムボートを軽くするために、イタリア人の男性と私が岸をめざして泳ぐことになる。

こんなはめになったのは、浜辺で知り合ったイタリア人のカップルに誘われて、私もゴムボートに乗ってしまったからである。沖に出たところで突風になりゴムボートは幾ら漕いでも動かず立ち往生。それを岸辺で見た人がモーターボートで助けに来てくれたのである。

泳ぎだした私は、ゴムボートの上から見えた岸が見えないのに気がつく。それは波が高いからだ。かなり先のほうを泳いでいたイタリア人の男性がいつの間にか視界から消えていた。特別に高い波が来たらしく、私は水を飲んでしまい侮辱されたような気がした。というのは、湖はゴミが浮いていたり水も濁っていたりして、数日前から近くのキャンプ場に滞在していたのに私はあまり泳がないように気をつけていたからである。

ときどき岸辺に生えている木が見えるが、自分が近づく気がしない。気をつけていたのに私はまた汚い水を飲んでしまう。前日に岸辺近くに腐ったトマトが浮かんでいたのを思い出して、また屈辱感を覚える。また飲んでしまう。風向きが絶えず変わり、その結果波が来る方向も変わるためかもしれない。私は何度も汚い水を飲み、その度に侮辱された気持ちになる。

だんだん力がなくなる。人間は何度も屈辱を受けると力を失う、ちょうど拷問を受けているうちに白状してしまうようにである。そのうちに自分が岸にたどり着かないような気がしてきた。人間はくだらないことで死ぬ。そう思っていると、また水を飲み私はあきらめたい気がしてくる。でも何をしたらよいのか。自分からすすんで汚い水をどんどん飲んだらいいのだろうか。そんな気になれない。その時である、近くを見覚えのあるモーターボートが通る。乗っているのは同じキャンプ場に住むハンブルクから来たドイツ人であった。私は助けを求めようと思い、一瞬ドイツ語で何といったらいいかを考える。次の瞬間モーターボートは波間に消えてしまった、、、、

でも私は溺れなかったのである。私がいっこう到着しないので、ゴムボートを引っ張ってくれたモーターボートがもどって来て私を発見したからだ。陸地に到着してから、私は何度も吐いたが、残念なことに、飲んだ汚水を全部吐き出すことができなかったと思われる。

後になって、溺れかかる私の近くを通り過ぎて波間に消えたモーターボートを思い出された。私はあの時日本語で「助けてえ」と大声で叫んでもよかった。コトバでなく大声をあげて、手を振るだけでもよかった。私はなぜそうしなかったのか。

昭和のはじめ頃東京日本橋のデパート白木屋で火事があった。女性は当時着物で下着はいていなかった。飛び降りるのを恥ずかしく思った何人かの女性が焼け死ぬ。子供の姉も私も、祖母からこの話を聞いて笑ってしまった。でも、波間に消えていくモーターボートを見送った私も、彼女たちと似ているところがあったのではないのだろうか。

見覚えのあるモーターボートを見た私はドイツ語の適切な表現をさがしていたのである。あの期に及んでそんなバカなことをしたのは、私がいつもドイツ語を正しく話そうと努めてきたからだ。私にとって、話すことは頭の中で作文をして発表するようなところがあり、私の中に存在するもう一人の私が正しい表現かどうかチェックする。このチェックは生命の安全より重要だったことになる。

私がミラノの近くの巨大なドブ池のような湖で溺れかかったのは昔のことである。私がそのことを思い出したのは、日本で長年外国語教師をしたドイツ人と日本人の外国語観といったことについて話したからだ。彼は、私たち日本人が外国語を話すことに憧れると同時に不信感を抱いていて、この二つ感情はコインの裏表で同じことだといった。

外国語を話すことに対する奇妙な意識は、日本に生まれて育つと同時にインプットされてしまうのではないのだろうか。私たちはペラペラ話す人を警戒するのに、外国語となるとペラペラ話すべきと考える。

人は下心、目的のようなものがあって口をきくのではないのか。だからもうけるために自分が売りたいものをほめちぎる、女が好ましく思えて声をかける、といったぐあいにである。ところが、私たちは外国語となると、この側面が抜け落ちてしまう。これは、私たちにとって外国語を話すことが自己目的になってしまうことである。その結果、外国語を話すことが憧れの対象になりやすく、そんなことはおかしいと思って、私たちは不信感を抱く。私には、そんな気がしてしかたがない。

バックナンバー目次に戻る