「欧州どまんなか」 June 06, 2001                                 
東ベルリンのディスコと日本語の授業

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80年代の中頃、私は新聞記者になった大学時代の同級生といっしょに東ベルリン・目抜き通りウンター・デン・リンデンの国立歌劇場裏にあったディスコテークに入ったことがある。

並んで待っている人々に少し気がひけたが、私達は入口で東ドイツ政府発行の取材許可証を見せ、もっともらしいことをいった。

なかでは皆が特別に上手に踊っているわけでも、特別な身なりをしているわけでもない。でも踊っている若者も、黙って立っている若者もこの上なく充実し、気合いが入っていた。

その雰囲気は一流女子体操選手を思い出させた。私は気後れしないほうであるが、気合いの入ったワザを示す彼女達の横でラジオ体操をする気になれない。演技を鑑賞したいと私も思う。その晩、私も友人も踊るのをすぐやめて、見物にまわったのは、これと似た事情からで、それほどディスコのほうに気合いが入っていたのだ。しばらくして、私達は熱気と充実ぶりに感動してホテルに戻った。

数年後「ベルリンの壁」があき、ドイツが統一するまでの間、私は東ベルリン・フンボルト大学の日本学科・学生と何度も接触した。当時、彼らは通訳として立派に働いていた。70年代私が知っていた西ドイツの日本学科の学生と比べて、彼らがこれほど日本語ができることに信じられない気がした。

こうして、私は東ベルリンの若者に二度も感動したことになる。娯楽の少ない共産圏でディスコが若者には唯一のはけ口で、他にすることがなかったから学生が日本語の勉強にはげんだ。そう思う人々も多いだろう。でも本当にそれだけのことだろうか。私は気になった。

当時ディスコテークにいた人々は特定できないのであきらめるしかないが、フンボルト大学日本学科卒業生に何かのきっかけで会うことがある。その度に私はこのことを話題にする。

最近、フンボルト大学で1964年から統一の頃まで日本語の授業を担当された斎藤瑛子先生からお話しをお聞きし、私は自分の理解を深めることができたと思っている。

フンボルト大学の日本学科は少数選抜方式だった。でも、斎藤先生は謙遜されるが、優れた授業で日本語の高い能力をもつ多くの卒業生をうみだしことには疑いないように思われる。

もちろん斎藤先生をはじめ、関係者個人が努力されたからと思われる。でも成功につながる要因を、個人を超えた制度やイデオロギーに求めることもできるのではないのだろうか。

例えば、そのような要因の一つは、フンボルト大学では教授陣が卒業生の就職に関与していたことである。だから、教え子の日本語能力が社会の需要に答えるものかどうかについて関心をもった。その結果、授業の改善に努力したのではないのか。こうして大学が社会とつながっていたのである。

反対に、西ドイツの大学の人文系教授ほど、卒業する教え子の就職に無関心な人々はいないと私は昔思った。これは、彼らの「象牙の塔」意識の反映であり、日本学科のように小さい学科ほどこの意識が強かったのではないのだろうか。

この「象牙の塔」意識から、日本学科では卒業生が大学の外で就職することなども想定されなかったし、日本語の授業でもコミュニケーションという側面が軽視された。私はそう思う。

70年代ミュンヘンで接触した日本学科の学生の話を聞いていて、彼らの受けている授業が語学授業でなく、この「象牙の塔」の入団式に似たもの、つまり一種の通過儀礼ではないかと、私はしばしば思った。

当時、日本語を二年ほど勉強した学生が室町時代に書かれたお粥の作り方のテキストを読まなければいけないと絶望して私にみせたことがある。この例も、また日本語の授業で敬語を強調し、そのあらゆる用法を一度に提示して学生を意気消沈させるのも、通過儀礼という私の印象を強めるものであった。

フンボルト大学の日本語の授業では、卒業生の誰もが強調するように、敬語に奇妙な意味があたえられておらず、話す内容、コミュニケーションが重要であった。これは、教えた人々が日本語を通過儀礼の道具として利用しなかったことを示す。

「象牙の塔」も、またこれを可能にした「大学の自由」もどこかフンボルトという名前と結びつく。ところが、この名前をもつ大学で、この精神と反対のことが実施されたのは歴史の皮肉である。

ドイツ社会で日本語の授業に関心をもつ人は少ない。でも、日本語ができる人材の育成は日本にとって重要なことである。それだけに、このように良い日本語の授業があったことを、私達こそ憶えているべきではないのだろうか。

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