「欧州どまんなか」 April 18,2001                                              目次に戻る
欧州は伸びたり縮んだり

 

私が長年暮らす南ドイツ、元「バイエルン王国」の住民ほど「中央意識」から縁遠い人々はいない。彼らは人の注目を浴びる舞台の真中より端っこにいるほうを好む。ところが、その彼らがしばらくの間自分たちは「ヨーロッパのどまんなか」にいると繰返したことがあった。

それは1990年のドイツ統一から二,三年のあいだであった。当時演説をした地元の政治家がしばしば「ヨーロッパの真中に位置するバイエルン州こそ、、、、」といった。あの時、なぜ彼らはそんな柄に合わないこといい、そのうちにまたいわなくなったのであろうか。

彼らがそういいはじめたのは、冷戦の終了でそれまで東欧と西欧に分かれていたヨーロッパが一つになり「欧州共通の家」と呼ばれるようになったからである。それまで端っこに立っていたのに、舞台のほうが勝手に東に向かって伸び、気がついたら自分達が舞台の中央にいた。確かに、南ドイツやそのお隣のオーストリアやチェコは、こうして大きくなったヨーロッパではパリやロンドンと比べて「どまんなか」なのである。

南ドイツ住民のこの意識は、ドイツ国民全体でみると、半世紀死語に等しかった「中欧」という言葉が蘇ることであった。ドイツ民族は何世紀にも渡って欧州大陸の真中から東の方で暮らしていた。千二百万人のドイツ人がそこから敗戦とともに追い出された。この破局の記憶がこの言葉と結びつく。

二、三年して「どまんなか」といわれなくなったのは、東に伸びたように一度は思われた舞台があまり伸びていないような気がして来たからである。こうして、ヨーロッパが元通りの「西欧」に収縮し、「中欧」という言葉も再び引出しの中にしまいこまれる。

この経過は血生臭いバルカン紛争と無関係ではない。はじめの頃、ドイツのメディアは「我々のヨーロッパの中で起こる残虐行為を座視してはいけない」と叫んでいた。それがいつのまにか、残虐行為は「我々の欧州の門前」で起こる事件になってしまった。

喧嘩をはじめたチンピラをレストランからつまみ出したいが、それもできない。そこで、頭のなかだけのレストラン縮小工事。こうしてバルカン半島が欧州の外になる。私は日本人であるせいか、ドイツ人の頭の中で欧州が伸びたり縮んだりするのが昔から気になってしかたがない。

何度か指摘されたことだが、アデナウアー西ドイツ初代首相にとって「ヨーロッパ」とは西欧であり、ソ連軍に占領された東欧圏は「野蛮なアジア」であった。これは、西から東に進み、「アジア」に近づくほど文明度が低くなる「西高東低」の文明観である。文明にもとることをしたヒットラーも彼には「西欧的」でなく、だからこそ野蛮であった。

昔とは変わって、民主主義者になったことを表現するために、ドイツ人は半世紀の間自分達が「西欧」に属することを強調してきた。そのためか、奇妙な「西高東低」の文明観のほうも、彼らの血肉になってしまった。私にはそう思われてしかたがないときがある。

「鉄のカーテン」がなくなった。ソ連軍戦車が消え、そのかわりに春をひさぐ女性が何キロもの列をつくって立っている。それを見て「文明度が低い別世界」と思ったのではないのか。こうして、冷戦終了で一度は拡大した欧州が直ぐにまた元の「小さいヨーロッパ」に逆戻りした。

西欧と外からお付き合いする人々から見ると、文明と「西欧」を同一視するのは傲慢以外の何ものでもない。アフリカを文明のない「暗黒大陸」と見なした人々と同じように、ヒットラーは欧州でこの「西高東低」文明観に従い、東に居住するスラブ人を劣等視した。だから彼らから「生存空間」を奪ってもかまわないと思ったのではないのか。

冷戦時代、東欧の反体制派知識人が「中欧」の復活を夢見た。当時、西側でも政治家や知識人がそれに賛同した。「ベルリンの壁」が崩れて、いざ実現可能となった途端、今度はヨーロッパが元の「西欧」に縮んでしまい、見果てぬ夢に終る。

確かに今や「中欧」という言葉は天気予報以外ではほとんど耳にしない。だが、人と物の流れは知識人や政治家の考えることと無関係で、「中欧」の夢もとっくに現実になっているのかもしれない。

去年、ケルンのバス停留所でバスに乗って飛行場へ行くつもりの私は、もう少しのところでワルシャワ行きのバスに乗り込んでしまうところであった。

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