「欧州どまんなか」 June 13, 2001                                   目次に戻る
歴史教科書と「野球の殿堂」

 

「一時間目は社会科の授業であった。これは、歴史、政治、地理といった課目がいっしょになったものである。先生はとても汗かきで、ワイシャツの肩のあたりが濡れてしまっている、、、ぼくはもう少しで居眠りしそうだったが、何人かのクラスメートとは異なって、眼をあけたままでいることができた」

これは、数ヶ月間日本の高等学校を体験したドイツの男子生徒が見た日本の授業風景である。

彼のように日本で通学体験したドイツのコドモが帰国後かならずいうことがある。それは、先生が、いつも汗かきでないかもしれないが、「ひとりで話していること」と、「暗記ばっかり」である。というのは、コドモたちはドイツの学校で授業が議論しながら進むのに慣れているからである。

昔七〇年代、私がミュンヘンのギムナジウムで教育実習をしたことがある。当時ベテラン指導教官に耳がタコになるほどいわれたことがあった。それは、私が生徒に分かりやすく説明し、生徒が皆理解しても、彼の尺度では良い授業でないこと、彼の良いと思うのは生徒たちが議論し、彼らの理解と議論とが同時に深まっていく授業であった。

その頃私にはコドモの早口についていくのがたいへんなこともあって、無駄な回り道を歩かされている気がした。先生なのに、私はどうしてコドモのクラス討論会の司会をつとめなければいけないのか。はじめ私は猛烈に反発した。

でも当時辛抱して良かったと思う。色々なことが私にわかった気がする。例えば、文化・教育・人間観によって相異なる授業コンセプトがあること、この違いによって先生が黒板に書くべきことも、教え方も、また教科書の位置付けも異なる。

今、日本で検定に合格した中学校の教科書について、中国、韓国、日本にまたがった論争が起り外交問題にまでなっている。

原因の一つは、儒教文化圏の三国に共通する、教科書を絶対視する授業コンセプトにあるのではないのだろうか。

ドイツのコドモが中国や韓国の学校を体験するなら、日本から帰ったときと同じように、あるいはそれ以上に、議論がない授業を権威主義的だと感じ「暗記ばっかり」だと思うのではないのだろうか。議論軽視の授業コンセプトと教科書絶対主義とは同じコインの裏表である。

歴史は「暗記課目」で、だから教科書に書いてあることが、余計な議論などしないで、そのまますっと生徒の頭のなかに移動して入りこむのが一番良い。

ドイツのコドモたちは、私達がそう考えている事情を見透かし「暗記ばっかり」という。またそれが授業目的で、だからこそ、教科書に記載されていることがこれほど重要になり、教科書絶対主義になるのではないのか。

反対に、議論重視の授業になると教科書とは議論のきっかけをつくるもので、だからドイツの歴史教科書は日本の7、8倍の量があり、史料集的側面も強い。だから教科書の記述に関してこんな一字一句を問題にする奇妙な論争は起こりにくい。

また、例えばシュタイナー学校のように、教科書なしで授業するコンセプトになると教科書の議論そのものが不可能になる。

ドイツのコドモは日独の授業コンセプトの相異にすぐ気がつくのに、オトナのドイツ人記者のほうがこの点を考慮することなく「教科書問題」について報道しているのは残念である。

日本の歴史教科書を見ると、私は奇妙な博物館を連想する。そこには「歴史的事実」と称する公認展示物がいっぱい並べられている。この博物館にコドモたちを案内し、彼らにどの展示物がどの部屋にあったかを記憶することをオトナは期待する。

挙句の果てに自分のごひいきの展示物が見当たらないと怒るオトナまで出てくる。同じ博物館でも、それが「野球の殿堂」で「昔好きだった下手投げ投手がいない」と文句をつけるのなら愛嬌があっていいのに、、、

日本の学校もとっくの昔に議論中心の授業コンセプトに移行していなければいけなかったのではないのか。私は日本のコドモをドイツのコドモと同じように扱っていけない理由を見つけることができない。例えば、どうしてひいきの選手が展示されていないのか、その選手は展示されるべきなのか、こんな「野球の殿堂」にどんな意味があるのかも含めて、本当は色々な問題について授業で議論することができるはずである。

日本の教科書問題とは、いつも「歴史的事実」の許認可の話になってしまう。最初「ディベート」的要素が授業に取り入れられることが期待されてはじまった今回も同じで、教育不在の政治的対立になってしまった。こうなるのは、議論を軽視する授業の伝統が強く、日本のオトナがこの権威主義的思考の枠組のなかに囚われたままでいるからではないのだろうか。