「欧州どまんなか」 October 10, 2001                           目次に戻る
ドイツの「イスラム原理主義」

 

私は、数年前ドイツ社会の「イスラム原理主義」を取材する新聞記者のお手伝いをしたことがある。私達は、ベルリンで回教徒のトルコ人がたくさん住み、「小イスタンブール」と呼ばれるクロイツベルク地区に一週間あまり逗留した。

当時、ドイツのトルコ人社会は分裂していた。一方に、アラビア文字からローマ字に切換えてアラブ文化圏と手を切った「トルコ建国の父」アタチュルクの国是を支持する人々がいた。その反対者は、回教の伝統に復帰しようとする汎アラブ主義者・「イスラム原理主義者」である。サッカーにまで、政府寄りのクラブとイスラム派の二つのクラブがあった。でも私達には、ドイツのメディアが心配する両派衝突の危険などあまり感じられなかった。

西欧人でない日本人に理解して欲しいと彼らは思ったようで、両派共々次から次へと会う人を紹介してくれた。夜も、私達は回教の礼拝所に赴いた。そこには、トルコ人だけでなく、トルコ本国では武力紛争中のクルド人をはじめ、アラブ諸国出身者が顔をみせていて、彼らとも話すことができた。

取材の終わり頃、私達は「ベルリン工科大学・学生の息子が信心深くなり、サウジアラビアのメッカに行ったきりで、悩む父親」の話を聞きつけた。彼を電話で説得し、私達は翌日会う時刻を決めるところまでこぎつける。また住所まで教えてもらった。彼は、旅行会社をはじめ幅広く商売をしている成功者であった。その晩私達は期待に胸を膨らませて夕食をする。ところが、翌日電話をすると、彼は、昨日とは打って変わった弱々しい声で「話したくない」といった。こちらもあきらめずに食い下がるが、電話のむこうで困り悩んでいるのが感じられた。結局、私達は彼と会うことなくベルリンをあとにする。

イラン革命以来、西欧は「イスラム原理主義」の影に怯える。でも現在、アラブ世界では、パレスチナなど紛争地域を除き、この「イスラム復古」の政治・文化運動は退潮傾向にある。米国がイラン・イラク戦争でフセインに加担しなければ、イランでも穏健派勢力の登場が早まっていたのではないのか。ホメイニから逃れ、数年で帰るつもりでドイツに亡命し、今でも近所に住むペルシャ人が、このことで私に嘆いたことがある。

「米国・同時多発テロ」の四機の飛行機うち、三機の操縦士はハンブルク工科大学元学生であった。なかでも、最初に世界貿易センターに飛び込んだ首領格のエジプト人・モハメッド・アタは在籍が長く、大学で彼を憶えている人も多い。

1968年生まれのこのエジプト人は、92年ハンブルク工科大学に入学し、「開発途上国の都市計画」を専攻する。当時の彼を知る人は、異口同音に彼の勉強熱心と頭脳の明晰さを強調する。また回教徒の彼は、アルコールを飲まず、異性との接触を極力さけ、おとなしくめだたない学生であった。

同級生との会話も専門的な話題に限られていて、議論をしても彼は感情的にならなかった。一度だけ、彼は先進国が処理に困ったゴミをエジプトに押しつけることで怒った。「近代化」がもたらす欧米の価値観や、「米国の文化帝国主義」に対して、彼が批判的であったのは、同級生にも感じられたという。

95年にエジプトとシリアへの都市計画・調査旅行に同行した同級生は、ドイツでは内向的であったアタがほがらかで、別人のようになったのを体験する。終了後アタだけが残り、メッカに巡礼にでかける。その年が終る頃、彼は大学に現れたが、髭をはやし、同級生は彼が変わってしまった印象を受ける。

96年から97年までの二年間、アタは大学に姿をみせない。この間しばらく、北ドイツの町で生活保護を受けるアラブ人のの通訳をつとめたことが事件後判明した。98年からまた大学に出るようになったが、以前のようにジーンズではなく、頭にターバンを巻くなどアラブの伝統的衣装を身につけるようになる。99年アタは大学を卒業した。卒論のテーマはシリアの古都アレッポで、「ユダヤ人もキリスト教徒もアラブ人も共存する旧市街地区保存計画」であった。その後、彼は大学院に残り、今年の冬学期終了まで在籍していた。

アラブ社会で「イスラム原理主義」がはじまった頃、運動家の半数は欧米留学体験者で、それは教育程度の高い、日々の生活に困らない人々の運動であった。この事情は、彼らが「西欧」との接点にいて、そこから押し寄せる近代化の波を、自分たちの文化的アイデンティティーを押しつぶす脅威として感じたからである。(だから、ドイツで暮らすトルコ人シンパの割合は、本国よりはるかに高い)。運動が大衆的基盤を得るかは、各々の国の政治・社会状況による。また運動の共鳴者からテロリストが出てくる確率はきわめて低いとされる。

昔大学で勉強していた頃、アラブ諸国の留学生と話す機会が多かった。彼らにとっての「西欧」が自分とは本当に異なると、私はよく感じた。当時私には、自分が勉強という名目で見聞を広めるだけの旅行者のように思われた。

確かに、ごく少数の人々を除いて、私達は明治以来「西欧」を軍事的・経済的脅威と感じても、「文化的侵略者」とは思わなかった。だから経済大国になって、「西欧」は「高級ブランド商品展示場」に過ぎなくなったのではないのだろうか。