「欧州どまんなか」 October 17, 2001                          目次に戻る
これは戦争でない

 

米国「同時多発テロ」直後、ドイツの紛争・平和研究所が合同で「これは戦争でない」という声明を出し、無思慮に「戦争」というコトバを使い、その結果明晰な思考が妨げられることに警告した。すなわち、
<これ(=テロを「戦争」と表現すること)は、自分では望まないのにテロリストと同じ言語を話すことになり、彼らの仕掛けた罠に陥ることにつながる。>

確かに、「戦争」というコトバには厄介なところがある。というのは、刑法的ルールを国際社会に適用し、「テロ」を刑事事件である違法行為と見なすと同時に、自国に対する「戦争」と受けとめるのはおかしい。逆説的ないい方をすれば、戦争は違法化された途端、「戦争」でなくなるのである。

話しの途中で相手が突然鉄砲をぶっ放す。それに対して、私達が阻止しようと暴力を行使する。この暴力行使は、警官が来るまでの緊急時に、私達が警察権の行使を代行していることになる。同じように、「戦争」を国際社会でのルール違反と見なし、それお阻止するために武力を行使することは「戦争」ではなく、国際社会の委託を受けて警察権を代行的に行使していることである。こうして、私達は誤解を招く「戦争」というコトバなしで済ませることができる。国連憲章で「戦争」が「紛争」というコトバに置き換えられたのもこのためである。

自他ともに認める「世界の警察官」が、違法な武力行使も自分の「警察権の代行的行使」も「戦争」と見なすことは、ケンカは違法と叫びながら、自分でもケンカをしているのか、警官の職務を果たしているのかが区別できないのと同じである。

この意味論的分裂症傾向は、米国が「戦争」というコトバを二つの意味、両義的に用いることから生じる。国際社会の名前で「戦争」を違法と見なし、それに対して武力行使する。つまり「警察権の代行的行使」で、これが第一の意味である。同時に米国は戦争違法化以前の「戦争」に、第二の意味に戻り、その結果自分の「警察権行使」の代行性を意識しないですますことになる。これが、世界中の人が感じ知っているように、米国が自分勝手に、何が違法であるかを決めることに通じる。

米国のこの意味論的分裂症は、哲学的素養のあるヨーロッパ人には苛立たしいことで、すでに1938年ドイツ人法学者カール・シュミットが分析・批判している通りである。

国連創設や、第二次世界大戦後のニュールンベルク並びに東京国際軍事法廷開設など、米国は20世紀の「戦争の違法化」、国際刑法の発展に偉大な貢献をした。でも「戦争」というコトバの両義性の問題はこの過程で大きな影を落としている。

例えば、上記軍事法廷の「平和に対する罪」の「戦争」は「警察権の代行的行使」の対象となる違法行為で、第一の意味である。訴追対象となる「通常の戦争犯罪」の「戦争」は第二の意味で、戦争違法化以前の「戦争」である。また戦争違法化の表現というべき日本の憲法九条が読みづらいのも「戦争」というコトバが米国風に両義的に使用されているからである。

このように考えると、「二十世紀は戦争の世紀」とは、「二十世紀は戦争が両義的(=不明瞭)になる世紀」であったことになる。次に米国の意味論的分裂症は、この国が二つの顔をもつことである。第一の顔は、国連をつくり、「欧州の列強」の国際社会を現在の姿に変貌させた米国で、第二の顔はこの国連を無視し、その分担金を滞納する米国である。

このような米国の危険を、ヨーロッパ諸国はよく心得ているように思われる。だから彼らは、米国に歯止めをかけるために、1998年に(米を含めて)139の国が署名したローマ条約で取り決められている国際刑事裁判所(ICC)の設立を熱心に推進している。米国が、ルアンダやユーゴに対する国際法廷は賛成しても、自国にお鉢がまわってくるかもしれない裁判所設立に猛烈に抵抗しているのはいうまでもない。ちなみに日本は署名もしていないし、メディアの関心も低い。EUと米の対立は「京都議定書」に限らないので、本当に不思議である。

現在進行中の米の武力行使に、条件つきでヨーロッパ諸国は賛成している。これは、彼らが米国提唱の「国際テロ撲滅運動」に、「麻薬撲滅運動」を支持するように、賛成し、武力行使を「警察権の代行的行使」と見なしているからである。

また彼らが米国に協力を申し出ているのも、「我々も同じボートに乗っていないと、進路が勝手に決められる」というドイツの政治家の発言からわかるように、この超軍事大国の暴走に歯止めをかけておきたいからでもある。反対に、口うるさいNATO諸国の乗船を避けるために、米は気心の知れた英国だけを今回誘ったともいえる。

米国の武力行使の支援は、「世界の警察官」をなだめたり、すかしたりして上手に働かせるのが目的で、国際社会の晴れ舞台にのぼりたいというような問題でないことだけは確かである。