「欧州どまんなか」 August 08, 2001                                   目次に戻る
「警察国家」vs「いじめ」

 

七〇年代、私は何人かの学生といっしょにアパートを借りて共同生活をしていた。ある時誰かの誕生パーティーがあって、五〇人ぐらいが話したり飲んだり音楽をかけて踊ったりした。真夜中を少し過ぎた頃、戸口のブザーが鳴った。ドアをあけると二人の警官が立っている。アパートの住人の誰かがやかましいといって警察に電話したからである。

次の例も七〇年代のことである。私は深夜酔っ払い運転で帰宅する。路上駐車をするために空いた所をさがす。やっと見つけて縦列駐車をこころみる。狭過ぎて後のボロ車にガチャン。その時女性が通り過ぎ、彼女と私の視線があう。その後、私はあきらめて別の場所にとめ、家に帰ってねた。

しばらくしてブザーの音で眼を覚ます。入口には三人の警官が立っていた。私は市の警察本部に連れていかれ、風船をふくらまし、調書をとられた。私は「帰宅してから飲んだ」と主張する。ボロ車の持主とは一度会ってビールをご馳走し、取り上げられた免許証も一週間後に戻る。「大山鳴動して鼠一匹」でなくビール一杯。でも、通り過ぎた女性が美しく、その彼女が警察に電話したことが、当時の私には特別残念であった。

三つめの例はつい最近のことである。勤務先の実業学校から帰宅した女房が、学校に三台のパトカーが来て十五歳の男子生徒を連行したと興奮して嘆く。それは、連行された生徒が学校の帰り道、同級生と喧嘩して靴を取り上げ、怒ったほうの生徒が警察に行き、窃盗の罪で告発したからである。

以上三つの例は、この国で刑法違反があり、市民が警察に告発すれば、それがいかに些細なことであっても警察が動くことを示す。ためしに、私は現場で働く知人の警官にきく。彼は「これらの例が極端でなく、現場の警官に与えられた裁量の余地は小さい。現場は何もしなかったことを後で非難されるより過剰反応で文句をいわれる方を選ぶ」と私に理解を求めた。

こんな「警察国家」をドイツ人は恥ずかしく思う。私も昔嫌いだった。でも、今私は少し違った見方をする。

私の息子は、週に一度土曜日の午前中ミュンヘン補習校高等部へ通い日本語を学ぶ。担任の先生は生徒に興味深いテーマを見つけて新聞記事を読ませる。例えば「いじめ」もそのようなテーマの一つである。

去年日本で中学生が同級生から総額五千万円も恐喝される事件があった。担任の先生によると、この事件もまた他の「いじめ」も、新聞記事を読んだクラスの生徒が「日本の同年齢の子供たちが家庭、学校、警察がないかのようにふるまう」ことを不思議に思うそうである。

周知のように、誰でも色々な組織や集団に属し、社会関係をもっている。子供も例外でない。「いじめ」に似た現象はどこにでもあるが、日本の話を聞くと、まるで子供たちがロビンソンクルーソーのように大人がいない無人島で暮らしいて、そこで起こった事件のように感じられる。被害者の子供が社会のなかで自分は孤立無援の状態にあると思い込む。自殺した子供の遺書を読む度に、この点が私には痛ましい。

多くの人々がこの現象を日本的と感じる。私もそうである。よく指摘されるが、日本型組織は外に対して閉鎖的で、どこか自己完結した性格をもつ。組織がこのような性格であると、当然その成員にとって、外部世界の存在が少し希薄になる。当事者が大人でなく子供であると当然この度合が更に強くなる。この結果が「無人島的状況」ではないのだろうか。

私は子供の頃思い出すと、自分が「学校」という子供の世界にどっぷりつかっていた気がする。今ここでドイツの子供たちを見ていると、彼らは色々な世界に足を突っ込んでいて、「学校」は彼らの世界のごく一部である。これが子供だけの「無人島的状況」を生まれにくくしているのではないのだろうか。

次に気になる点は、日本型組織が閉鎖的で自己完結的であるために、潜在的に「自治的空間」、「国家内国家」になる危険をもつことである。この結果の一つは、大人が組織のために外部の世界のルール違反、例えば刑法違反をするときの葛藤が意識の上で小さくなることである。

「いじめ」をする子供たちに、刑法上の重罪を犯している意識が生まれにくいのも同じことではないのだろうか。また両親も学校も頼りにならないときに、被害者の子供が警察にかけこむ発想をもちにくいし、また警察にも「いじめ」を子供の世界の出来事で管轄外の事件と見なす傾向がうまれる。

誤解のないように強調すると、私は日本の子供もすぐ警察に行けと主張しているのではない。女房の学校には、校内紛争を調停するために生徒と教師から構成された委員会が設置されいる。けんかで靴をとられことが本当に「窃盗」であるのだろうか。生徒がこの問題をあまり考えずに警察に行ったことを、女房は残念に思っているのである。私も彼女と同意見である。