「欧州どまんなか」 October 24, 2001                                       目次に戻る
二つの椅子の間にすわる

 

もちろんできないのである、二つの椅子の間にすわるなんて。これはドイツ語の熟語で、どちらかに決めなければいけないという意味である。またこの表現は、二つの国の間でどっちつかずの人間になるという警告にもなる。何かの拍子でこの表現をつかう人に、私は冗談で「自分は日本人だから、二つの椅子の間であぐらをかく」ということにしている。でも本当のところ、そうはっきりいうほど自信があるわけでない、、、

私は1968年はじめてドイツに来た。その時日本を離れて、本当に遠い異国に来たと思った。私は南ドイツの田舎町の語学学校でドイツ語を勉強する。はじめ、自分が日本の大学でドイツ文学を専攻しているのに、会話ができないことが恥ずかしかった。

一ヶ月した頃、私は、話せないで子供のようになるのも悪くないと思った。子供がどこへでもいっしょに行きたがるように、同級生と気軽に行動を共にするようになる。私は四六時中誰かと口をきき、だんだんドイツ語を話すことが苦でなくなる。

その小さな田舎町に来て二ヶ月あまりした頃、私はクリスティーネという女性と知りあう。彼女は、町に一軒だけある本屋で働いていた。小さい町で彼女と私は道路で挨拶するようになった。ある日、喫茶店に入ると彼女がひとりですわっていた。私達は親しくなり、事情が許す限り一緒の時間を過ごすようになる。彼女はしっかりしていて、自分より年上のような感じがしたが、本当は五歳も若かった。彼女と、また時には、その町の同じ年頃の若者とっしょに、泳ぎに行ったり、映画を見に行ったり、またよく二人だけで森の中を散歩したりした。

1968年、世界で色々な事件があった年である。ベトナムでは戦争が続き、「プラハの春」、米でマーティン・ルター・キングとロバート・ケネディー暗殺、フランスでもドイツでも街頭デモがあり、誰かが殺された。私の部屋で、クリスティーネが持ってきたラジオから、二人で胸をときめかせて夜のニュースを聞いた。語学学校でも、事件が起こった国の出身者が激しく議論をした。ある時、授業中紙切れが回ってきた。「フランスは革命中」とあり、ドゴールの似顔絵にペケがしてあった。隣にまわすと、少し離れた席でパリから来た学生が私に得意げに合図するのに気がつく、、、、、

私は6ヶ月滞在し日本に戻った。両親は私の帰宅をよろこぶ。母にだけ、ドイツで好きな女性ができ、また直ぐドイツに行き、結婚すると告げた。母は「そんなにお世話になったのなら、お礼をしなければ、、、」と、取り合わなかった。

数日後、私は大学へ行く。キャンパスのベンチに腰かげていると、政治活動家の同級生が近づいて来た。ドイツがどうだったかときく。私は、自分がどう話していいかわからないので、「よかった」という。帰国する十日前のソ連・チェコ軍事介入に話が向いた。「チェコ国民がかわいそう」と私は同情する。彼は、私の感傷主義と歴史認識の欠如をからかいはじめた。私は、事件の翌日、語学学校の校長が、食堂で泣いていたチェコの女子学生を抱きかかえて、慰めていたのを思い出す。でも、それも遠い別世界で映画の一場面のような気がした。

担当教授を訪れると、彼は、私がドイツで名所旧跡に行かず、重要なことを見聞しなかったと怒る。私ははじめて自分が田舎町に滞在し、旅行一つしなかったことに気がついた。私の知りあったのは、クリスティーネを含めて、どこの国にもいそうな普通の人間であった。とすると、私はどこかへ行っていたが、ドイツには行っていなかったことになる。でも私はドイツで楽しかったし幸せであった。頭が混乱しそうになった。その後、あまりドイツのことを考えないことにし、誰かに聞かれても「よかった」と答えるだけにした。

クリスティーネから二日に一度ぐらのわりで手紙が来た。私も手紙を書く。一度、自分のドイツ滞在中自殺した同級生について自分の気持をドイツ語でつづる。書きながら、彼女といっしょにいたとき、自分が一度も日本のことを話題にしなかったことに気がつく。当時ドイツで、日本が遠い別世界にあって、私は日本のことを思い出さなかったからである。自分の気持を表現するために悪戦苦闘して、やっと手紙を書きおえる。今度は、クリスティーネが本当に遠い別世界の存在に思われた。

授業がはじまり、同級生とよく話をするようになる。また卒論を書きはじめた。そのうちに大学紛争がはじまり、周囲は騒然としてきた。私もまったく無関心でいることができない。クリスティーネからの長い手紙を読むのが億劫になり、自分が別の人間になっていくのに気がつく。私はだんだん手紙を書かなくなる。年が明けて、彼女は怒って、私に最後の手紙をくれた。私は、ほっとすると同時に、何か大切なことを自分の怠惰から失ってしまった気がした。

この最初の経験があるためか、私は、今でも心のどこかで、日本にいるとドイツが、ドイツにいると日本が別世界のように思うところがある。これは、理屈というより気分である。これも、飛行機代も電話代も高く、ヨーロッパが本当に遠くに見えた時代のお話である。たくさん人々が往来し、インターネットもできた現在、若い人はどう感じているのであろうか。