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それから、我が町のお肉屋さんのご主人が前に出た。今日は戦没兵士遺族代表としてである。彼は奥さんが病弱なのに7人も子供つくって、町のフェミニストに評判が悪いが、彼のつくるソーセージはおいしい。用意した原稿を、彼はときどきつっかえながら読みあげる。「故郷を防衛するために亡くなった我が町の兵士」という箇所で私はヘンな気持になる。それなら、どうしてロシアくんだりまでドイツ兵がでかけたのですか、、、、でも、これもこのような場面で些細なことである。 この後、全員でブラスバンドに合わせて賛美歌、ドイツ国歌、バイエルン州・州歌を斉唱。そして市長とお肉屋さんが大きな花輪をお堂の入り口に置いた。その後60メートル離れた地点で町の射撃協会の「大砲係り」がドーン、ドーン、ドーンと三度空砲を響かせた。(これだったのです、昔11月の日曜日。朝寝坊の私を起こしたのは)。この空砲で、今年度「国民哀悼日」終了。 「国民哀悼日」は、第一次世界大戦後の1919年南ドイツからはじまり、1922年帝国議会で戦没兵士追悼の行事が催された。戦争とは不公平をもたらすものである。なかには一家の大黒柱を失う家族もいれば、また運良く不幸にあわなかった人もいる。同じ町で、同じ国で暮らす以上、この日に皆で不幸せになった人々に思いをよせる。これが趣旨である。1934年から45年までのナチ時代には、戦没兵士の勇気を称える「英雄追悼日」に変貌。戦後1950年、また元の趣旨に戻り復活する。当時は米軍をはじめ占領軍関係者も出席した。 ドイツのどこの村にも、またどこの町にも、かならず石碑やお堂のようなものがある。私の住む町の「戦士の碑」と呼ばれるお堂は豪華版で、この町出身の戦没兵士の名前が没年ごとに壁に刻まれている。「1914年‐1918年、1939年‐1945年・戦没兵士を記念して」と記された石碑が雨ざらしになっているのが普通。「国民哀悼の日」には小さな村でも町でも、また首都のベルリンでもこの種の儀式が催される。この二十年来、出席者は少なく、老人だけになった。 息子はちいさい頃小児喘息をわずらった。運動させるのがいいので、私たちはよくいっしょに散歩した。ある夕方このお堂の入口に電灯がついていて、中に入るとたくさんのロウソクがともっていた。(後から思うと、その日は「国民哀悼日」だったのです)。そのとき、私はここが「戦士の碑」であることを知った。ロウソクをよろこぶ息子に、私は「これはドイツの靖国神社」といった。それ以来、散歩で息子が歩くのをいやがると「靖国神社までガンバレ」と励ますようになる。この「靖国神社」は息子と私の間だけで通じるコトバで、町の人々がそう呼んでいるのではない。 |