「欧州どまんなか」 December 05, 2001
私の町の小さな「靖国神社」

 

数十人ぐらいの老人が「戦士の碑」のお堂の前に集まっている。子供が二人いたが、誰かが連れてきた孫と思われた。数日前に降った雪はとけずに残っている。

町のブラスバンドが演奏する荘重な曲が終わると、チャペルの前で市長の隣に立っていた神父さまが「そろそろはじめましょう」といった。2001年11月18日、ドイツ「国民哀悼日」のことである。この日に、ドイツ国民は第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦没兵士を追悼する。

神父さまはいったい何を話したのだろうか。キリスト教徒でない私はこのような場面でいつも注意散漫。雰囲気になじめず、いたたまれない気持がして、教会なら出口に近いところか、野外であれば一番後に位置することに決めている。「平和」とか「神の愛」とか「憎悪の鎖を絶ち切る」とか「和解をしなけれいけない」とかいった文句がきれぎれにきこえた。本当にその通りで、私は素直になろうと思う。

ミュンヘンの町ではなだらかなイザール川も16キロ上流の私の住む町では谷間を流れる。お堂は、川をみおろす絶壁に沿って数キロ続く散歩道の途中にあった。日曜日の朝9時半。犬を連れて散歩する人も、ジョギングする人も多い。自動車会社BMWの財務部長の知人が元気に走って来た。見物する私に気づき、彼は手をあげる。日本で暮らす姉が老後の心配から、少し前にこの会社の社債を買った。

そのうちに神父さまは第二次世界大戦後も起こった戦争をかぞえあげ、その犠牲者の冥福を祈る。そしてお話が9月11日のテロ事件におよぶ。よそ見することが多かった私も南塔94階で死んだ姪を思い出して急に神妙になり、皆といっしょにテロ犠牲者の冥福を祈った。

次は市長。女性市長は我が家の向かいに住む。彼女は、今年の夏ウクライナのバリシェフカ市の近くに建設された「戦没ドイツ兵士の墓」除幕式に臨席した。この話しをして、また「憎悪の連鎖を断ち切り、和解がいかに重要であるか」と訴える。ウクライナのバリシェフカはこの町の姉妹都市で、神父さまが同行せず、二人の仲がよくないという噂を聞いたのを思い出す。



 

それから、我が町のお肉屋さんのご主人が前に出た。今日は戦没兵士遺族代表としてである。彼は奥さんが病弱なのに7人も子供つくって、町のフェミニストに評判が悪いが、彼のつくるソーセージはおいしい。用意した原稿を、彼はときどきつっかえながら読みあげる。「故郷を防衛するために亡くなった我が町の兵士」という箇所で私はヘンな気持になる。それなら、どうしてロシアくんだりまでドイツ兵がでかけたのですか、、、、でも、これもこのような場面で些細なことである。

この後、全員でブラスバンドに合わせて賛美歌、ドイツ国歌、バイエルン州・州歌を斉唱。そして市長とお肉屋さんが大きな花輪をお堂の入り口に置いた。その後60メートル離れた地点で町の射撃協会の「大砲係り」がドーン、ドーン、ドーンと三度空砲を響かせた。(これだったのです、昔11月の日曜日。朝寝坊の私を起こしたのは)。この空砲で、今年度「国民哀悼日」終了。

「国民哀悼日」は、第一次世界大戦後の1919年南ドイツからはじまり、1922年帝国議会で戦没兵士追悼の行事が催された。戦争とは不公平をもたらすものである。なかには一家の大黒柱を失う家族もいれば、また運良く不幸にあわなかった人もいる。同じ町で、同じ国で暮らす以上、この日に皆で不幸せになった人々に思いをよせる。これが趣旨である。1934年から45年までのナチ時代には、戦没兵士の勇気を称える「英雄追悼日」に変貌。戦後1950年、また元の趣旨に戻り復活する。当時は米軍をはじめ占領軍関係者も出席した。

ドイツのどこの村にも、またどこの町にも、かならず石碑やお堂のようなものがある。私の住む町の「戦士の碑」と呼ばれるお堂は豪華版で、この町出身の戦没兵士の名前が没年ごとに壁に刻まれている。「1914年‐1918年、1939年‐1945年・戦没兵士を記念して」と記された石碑が雨ざらしになっているのが普通。「国民哀悼の日」には小さな村でも町でも、また首都のベルリンでもこの種の儀式が催される。この二十年来、出席者は少なく、老人だけになった。

息子はちいさい頃小児喘息をわずらった。運動させるのがいいので、私たちはよくいっしょに散歩した。ある夕方このお堂の入口に電灯がついていて、中に入るとたくさんのロウソクがともっていた。(後から思うと、その日は「国民哀悼日」だったのです)。そのとき、私はここが「戦士の碑」であることを知った。ロウソクをよろこぶ息子に、私は「これはドイツの靖国神社」といった。それ以来、散歩で息子が歩くのをいやがると「靖国神社までガンバレ」と励ますようになる。この「靖国神社」は息子と私の間だけで通じるコトバで、町の人々がそう呼んでいるのではない。

でもあのとき、なぜ私は「靖国神社」といったのだろうか。

「国民哀悼日」は暦の関係で11月の第二日曜日になったり、第三日曜日になったりするが、いつも曇り日である。